東京産

丁の産地といえば、大阪の堺、新潟の三条、岐阜の関または越前や三木などが有名で、とりわけ伝統的な和包丁に関しては堺の特産のように言われるが、昔は東京にも庖丁鍛冶を生業としている職人が、数多く存在していた。『昔はこのあたりでもカンコンカンコンとね、叩いている音がしてね。』と当時を知る人々は懐かしみながら話してくれる。

出典1
出典2

徳川家康が幕府を開き、江戸の発展とともに全国から集められ、集まってきた職人の中には、当然鍛冶屋も多く存在しており、彼らは東京・神田に今も地名として残る『鍛冶町』に住み込み江戸の発展を支えてきた。火事がよく起き、大工が仕事に困ることがなかったという江戸で、その大工を支える鍛冶職人達の腕が悪かったはずがなく、また、明治時代に入ると、それまで刀鍛冶だった者たちが廃業し、農具や大工道具等を作り始めた。そういった歴史の中で、培われてきた東京職人の鍛冶の技術の高さは、戦前、東京産の鋏が地方産の二倍以上値段がつけられていたという資料の中からも見ることが出来る。
東京という狭い土地に、金が集まり、腕の良い多種多様な職人達が腕をせめぎあいながら仕事をこなしていたことも東京の職人たちの技術の向上に影響しただろう、大工や料理人などの使い手は、文句があれば直接売り手や鍛冶屋、研ぎ屋に注文を付けることが出来る、そういった人々の物理的な距離の近さは東京ならではであったであろう。そういった環境が千代鶴是秀や石堂といった伝説的な名鍛冶屋を生み出したといえるだろう。

 

刃物問屋 森平の先代と並ぶ千代鶴是秀

かし、戦後20年を過ぎたあたりから、高度経済成長を迎え、街や生活が一変し始めた東京で、そのような人々の物理的な距離は鍛冶屋にとってだんだんと悪条件となっていく。騒音を発する鍛冶屋は、地方への移転か廃業を迫られるようになっていく。移転した鍛冶屋は現在でも埼玉や千葉、山梨などで鍛冶業を営んでいるが、東京周辺で移転することなく続けていた和包丁専門の鍛冶屋はそのほとんどが姿を消してしまった。

 
人と人の距離は高度経済成長とともに近くなっていく。*出典3・4

堺や三条、越前のように集団的な協力関係をあまり持たずに、個々で仕事をこなしていた東京の庖丁鍛冶達は、歴史的に産地としてあまり有名になることもなく庖丁産業の表舞台から姿を消してしまった。

京で100年以上、刃物類の商売に携わってきた浅草橋の刃物・砥石問屋の『森平』は、当時から関東の鍛冶屋達と深い付き合いにあり、一時期は20を超える鍛冶屋や研ぎ屋が森平のために働いていた。
鍛冶屋が廃業を決断すると、森平の店主はそこの庖丁を愛用している料理人達が困らないようにと、その後何年かはとっておける数だけの庖丁を作ってもらおうと注文する。そうすると、『森平のためなら』と言って鍛冶屋も数年、その注文をこなすために余計に仕事をしていった。

かつて森平のもとで仕事をしていた職人たち

今回、森平の店主が倉庫から出してくれた庖丁は、20年ほど前に出した『最後の注文』の残りであり、江戸から続く東京の鍛冶屋たちの『最後の仕事』のひとかけらなのである。

刀身のどこかに掘られた『東京』の文字

刀身のどこかに切られた『東京』という刻印は、そういった東京の職人達の誇りであり、東京という土地で腕を上げた職人たちに対する信頼の証でもある。
残り、どれだけ人々にお見せすることが出来るかわからないが、江戸・東京にはかつて腕の良い鍛冶屋が何人もいた。そういった歴史の片鱗が、正しい人々の手に渡ることが、私たちの願いである。

写真・文章:Hokuto AizawaHitohira

出典
1 歌川広重作画 名所江戸百景 する賀てふ
2 葛飾北斎作画 東都地名の内・佃島 佃島の錨鍛冶師
3 撮影者 不明 引用元 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NewlyBuilt_Nihonbashi_1911_Tokyo.jpg?uselang=ja
4 撮影者 Yodalica 引用元https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokyo_from_the_top_of_the_SkyTree_(cropped).JPG


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です