『次から旅をするときは、ビデオカメラを持って行くといいよ。』
ソファーに腰掛ける4、5人が自己紹介を終えた後に、私のカナダ、トロントにたどり着くまでの経緯を説明した後、髭面のイケメンが途切れ途切れにそう言ってきた。
後のトロントでの親友であり、一年以上この糞みたいに寒い街を一緒に励ましあいながら進んでいく相棒となるエリスンとの出会いであった。
海外に来て、多くの人間が『友達作り』に苦労しているという話を聴く。
そもそもが、教師という共通の敵を作り、エロという共通の夢を持ち、阿呆であることがステータスであった学生時代と違い、20も中盤になれば人は皆それぞれ自分を形成していく。
敵は上司になり、同期にもなり、妻にもなる。性的趣味趣向だって変わってくる。もはやただのエロでは飽き足らず股間を元気づけるために様々な創意工夫を凝らすのである。
インテリになるもよし、貧乏楽しむもよし。自分が分からなくて意味も分からず海外に出て、結果二年以上も日本を離れるという阿呆を継続し続けるもよし。
ただ、そうやって自分の歩む道を歩み始めると、同時に友人なんていうものは簡単にできなくなってくる。
友人とは結局意識の共通により生まれるものでしかなく、ましてや違う国・文化・言語の元で育ってきた人間が、本当の意味で友人となるのは、そんなに簡単なことではない。
もちろん、簡単なことではないから意味があるのだが。
エリスンと私がすぐに友人になれたのは、私やエリスンが置かれている状況が類似していて、さらにはそんな人間が周りに全然いなかったからであろう。
トロントに来てすぐの時、彼はいつも、手のひらサイズの単語カードを持ち歩いていた。
つまりは単語カードなどというものを持ち歩くほどの英語力なのである。
私自身も、きっと単語カードを持ち歩かなければいけないレベルなのであろうが、日本を離れて単語カードなどを持っている人間は彼以外に見たことがない。
それでもそんな少ない語彙力で、互いが互いに時間をかけて言いたいことを言いあった。
今では私と彼が会話をするときには、日本語でも英語でもトルコ語でもないような、特別な言語が流れている感覚がある。
居酒屋でアルバイトをしていた時、何年も一緒に働いていた高校時代の同級生とキッチンで一緒に働くと、『アレ取って』というだけで、『アレ』の説明を行う前に『アレ』が飛んでくる。
あの『分かり合えている』空気感を一生続けられるのなら、一生を居酒屋のラインクックで終わってもいいと思ったほどだ。
さて、そんなエリスンとの会話には、そんな『分かり合えている』空気感が全面に広がっている。
それは、互いに英語が不自由なときから話し、共に英語力を上げていったところにあるだろう。
私達はカナダで共に育った子供のようなものだった。
『彼女は個性的な人だね』と私が言うと、エリスンが
『あぁ、個性的ってあれ?他人の目をまったく気にしないってふりしながら誰よりも一番気にして個性的にふるまってる人のこと?』
と言ってきて、お前は俺か?と言いたくなった。
そんな英語力や思考回路に加え、絶望的に金がない状況、お互いの政治・宗教観、隣のラティーニョの喜怒哀楽の激しさに悩まされる、と私と彼に降りかかる困難は、互いを共感しあい、理解を深め合うには十分類似していた。
そんなエリスンが、3月の末にトロントを発った時、発した一言は、私が考えていたものとまったく同じだった。
『一年と数か月。僕たちがたったこれだけしか一緒にいなかったなんて信じられないよ。まるで何年もいるみたい。別れるのだって全然悲しくないよ、だって絶対また会うって思うからね。』
そう、私たちの別れには一滴の涙も、熱い抱擁もなかった。
『また明日。』
そういって別れる。毎日と何の違いもないように、彼は搭乗ゲートをくぐって行った。
たった一年、同じ地に住んだだけである。
いや、一か月でも、一日でも。
彼らがいなかったら私の人生はどう変わってただろうと思い返すことがある。
彼らと出合っていなかったら、きっと私の人生は違っただろうし、私の頭の中も変わっていたはずである。
雪が解けて、暖かい空気と共に動物たちが鳴き声を上げ始めたトロントで、明日はどんな人間に会えるのだろうがと不思議とわくわくする気持ちがわき上げてくる。
私の人生を変えてくれる誰かに、私が海外に求めていたのはきっとエリスンのような、そんな人間なのかもしれない。
ただ、次はそんな出会いが女性であることを望まずにはいられない。
続く…