4-4. 100年の時すらも超えて

浅草橋から歩いて徒歩数分のところに、『森平』という問屋さんがある。

私が初めてそのお店を訪れたときは、その壁一面に並ばれた砥石の数々と、貫禄店主が研ぎを行う姿を見て、たじろき、一言も話しかけられずに追い出されるように店を発った。

今の包丁屋で働き始めて、数週間が経ったのちに、『いや?そんなに堅苦しい人じゃないはずだよ、紹介してあげるから会ってみればいいよ!』と言われて、紹介され、初めて店主と会話をかわすこととなり、その後、カナダからの頼まれ物を調達するのにその問屋さんを利用させてもらうことが続き、今では顔を出せばコーヒーを出してもらい、気が済むまで世間はなしをしてくれるほどとなった。

毎週のように何も買わないのに顔を出して、申しわけなさそうにしていると、森平の店主は笑いながら、『私が若いときは、ことあるごとに職人さんと何かを飲みながら話したものです。』と言い、彼が若かりし頃に見てきた、私が今住んでいる土地とは、同じ国とは思えないほど、まったくの別世界と思えるような物語を聞かせてくれる。

昔、まだ鍛冶屋が東京に多く残っていたころ。東京産と地方産の刃物の値段が大きくわき隔てられたころ、機械が少なく、職人が街に溶け込んでいたころ。
そんな頃、刃物の問屋の役割は、ものを卸すだけでなく、研ぎ師と鍛冶屋の架け橋となる存在だったそうである。

いまだに多くの人が『昔はいいものしかなかった』と嘆く所以には、そこに顔の見える人々の意地と誇りがあったからなのだろうと思う。
鍛冶屋から上がってきた刃物を、研ぎ師に渡すと、研ぎ師は次々に鍛冶屋から上がってきた刃物をはねてしまう、研ぎ師からすれば『こんなもの、商品にできない』レベルのものだったのだろうが、それを鍛冶屋に伝えると、今度は鍛冶屋が『そんなわけはない、その研ぎ師を呼べ』と怒ってしまうのだそうだ。
さて、そんな二人の仲直りを受け持っていたのが現店主のお父さんであった。
森平は、二人を店に呼び、鍛冶屋が打った鋼を研いでみる、そして『商品にできないほどではないでしょう』と二人に伝えるのであった、すると、鍛冶屋はほれ見ろ!と研ぎ師に言うのだが、ここで問屋の店主は『商品にできるってだけで、上等というわけではないですよ。』となだめるのであった。

『昔はここらも職人さんが多くてね、みんな気が強いから、話を通すのも一苦労だったんですよ。宴会で席を決めるのすらも一苦労。』
それでも、『それも今となってはいい思い出です。』という店主の顔には、どことなく今ではほとんどいなくなってしまった東京の鍛冶職人に対する寂しさもあるような気がしてならない。

そんな森平の現店主は、店を継ぐ前の若いときに、修行の一環として『研ぎ屋』で働いていたそうなのである。
今でも、自宅に看板を掲げて、包丁の研ぎを行ったり、理容系の鋏などでは専門の研ぎのお店があったりするが、当時の『研ぎ屋』の話を聞くと、それこそ失われた東京の一つの風景が目の前に浮かんでくる。

当時、森平の現店主が働いていた研ぎ屋には、3台から4台分の研ぎ場が横一列に並んでいて、それぞれの研ぎ師が歩合制で商売をしていたらしく、腕のいい研ぎ師の場所には長蛇の列ができ、入りたての新人は暇をもてあそぶという状況だったらしい。
東京にいる職人達にとって、刃物は仕事に使う真剣なものであったから、できる限り腕のいい研ぎ師に研いでもらおうと、その店で一番腕のいい人間の列に並び、近所の主婦たちは、すぐに仕上げてもらいたいから、多少腕が悪くても空いている場所に並ぶ。
そうやって刃物を仕上げていくの待っていると、そこに交流が生まれる。

主婦たちは、買い物の話に花が咲き、魚屋と料理人が出会えば、季節ものの魚の話になり、職人達は研ぎに目を光らせ、『そこ!もう少し薄く研ぎ減らして!』と注文を付ける。

そこで会話が生まれ、商売が生まれ、交流が生まれた。『うんと昔ですけどね、研ぎ屋という場所はそういう場所だったんですよ。』と現店主はいう。

そんな現店主は、『ものすごく暇で、砥石の平面出ししかさせてもらえなかった』という状態から、『お店で一番列が長くなった』状態まで出世した後に、研ぎ屋をやめて父親の手伝いに戻っていったのだそう。

『昔はどこに行っても職人の顔と作業が見れて、交流があった。今では研ぎを見る場所すらないから、職人さんでも研ぎを知らない人が多いですよ。』

私は、戦前の物語を記した書物を読むと、涙が出るほどうらやましくなることがある。
それは、そこに描かれている人々の生活に、きっと、人々の切っても切れぬ繋がりを感じるからなんじゃなかろうかとおもう時がある。誰もが何かしらのために存在して、だれもがそれを知っていた。私が生まれる何十年も前のお話である。
きっと私が海外に魅了を覚えたのも、そこなんじゃないだろうか。
大都市であったトロントがそうだったかと聞かれれば、そうじゃなかったかもしれない、しかし、それでも、今のこの人があふれかえり、一人ひとりの重みがとてつもなく小さくなっていているような日本、東京に比べると、人々がいたわりあい、感謝しあっていた。
小さなコンビニでも世間話をして、お店で人々が出会うと、コーヒーでも飲みましょうかということになる。彼らにとってカフェとは、パソコンをいじり、本を読む場所ではなかった、おしゃべりをする場所なのである。

『私もね、職人さんのお父さん、そしておじいさんの話を聞いて、その時とはずいぶんと違った世界に触れた気がして、感動したものです。こうやって何か飲みながら話をしていると、100年の時だって超えたみたいですね。』と現店主はいう。

森平の店主と、コーヒーを飲んでいると、自分がそんな歴史の一部になれた気がして、用事もないのについ顔を出してみたくなってしまう。


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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