2011年、3月。私は高校時代の友人達と就職活動前最後の思い出づくりとして寝台列車での北海道旅行を企画していた。
北海道は私の出生地でもあり、東京―北海道間の寝台列車での旅行は、私の数少ない幼少期の思い出の一つでもある。
寝ている間も電車が動き続け、カーテンを開けて両親と会話したことをいまだにうっすらと思い出す時がある。それこそが私の旅への欲求の原点なのではと思う時すらある。
そんな旅行の計画を練り、予約を済ませ、ドキドキしながら待っているときに、東北大震災が起きた。
私が住んでる地域は停電以外大した損害もなく、皆が余震に少し敏感になっているぐらいでニュースを見て感傷的になっている人間はいるものの、ほとんど家にはおらず、バイトにはバイク通勤で大学が休みだった私はほぼ何の影響もなく生活できていたこともあり、旅行の計画を中止するなんて考えは微塵もなかった。
しかし、そんなわくわくやドキドキは『自分の国』で多くの命が失われる大惨事にある状況下で、あまり許される感情ではなかったらしく、私が震災後も旅行に行くつもりでいると、SNS等から『考えられない』と言うようなお叱りの文字を数人から叩きつけられてしまった。
結局、旅行は中止となった。
震災後、私は割と悩んだ。
それは平和というものにでも日本という国にでもなく、放射能や原発でも民主党の対応にでもない。
『自分は感情が欠落しているのだろうか。』
そのただ一点にだけ。
私の友人は、東北で多くの方が震災や原発の被害に会い、命や居場所を失ったことで、悲しみのあまり食事も喉を通らなかったらしい。
中止を決定した友人や、中止するように促してきた方々は、震災で被害を受けた人々を気づかい、やめるべきだといった。
確かに、チャンネルをどこに合わせても、流れてくるのほ悲惨な状況で、その時の人々の雰囲気といえば、異様であった。
停電で町は暗く、路地は人通りが少なく、皆がどことなくぎこちなく生きている感じがした。
例え顔が見えないSNSであっても、下手なことは言えず、『頑張ろう』『大丈夫』そう皆が言葉をかけあってた。
もちろん、私も例外なく、人々を気遣い、お悔やみなんかを申し上げて、励ました。
でも、今思うと、『ふり』だった。
回りがそうしているから、そうしなければいけない雰囲気だから、日本全体のことを考えている『ふり』をして、同じ日本人が悲惨な状況下にあることを憂う『ふり』をしていた。
当時からそれが、心の奥底から思っていることではなく、『ふり』であるということに気づき、自分が感情の乏しい『冷たいやつ』なのか、それとも東北の悲惨さを想像できないほど想像力の乏しい人間なのかと、本気で悩んで、責めた。
もしかしたら、皆は友人や親族が被害を受けている人もいたのかもしれないが、私には東北に住んでいた友人も親族もおらず、被害を受けた地域には縁もゆかりもなかった。
自分を責めると同時に、どうして人々が見ず知らずの人々のために涙を流せるほどの豊かさをもっているのか。その豊かさが本当にうらやましく、それを持ってない自分が非情な人間に思えてきた。
『感情の欠落』はことあるごとに私を悩ませては出口のない迷宮へとご案内してくる。
挙句の果てには『自分の友人や親族が天に召された時、自分は本当に悲しめるのだろうか。』
という、誰しもがじその状況下になってみないと分からないであろう疑問を自分自身に投げかけては、確信を持てずに悩んだ。
そして迷宮を彷徨い続けながら約4年の年月が発った。トロントで生活して一年がたった。
トロントのテレビ番組は、日本の何倍ものチャンネル数があり、私が住んでいるところは、基本的にニュースかお天気が常時流れているチャンネルに固定してある。
世界中からの移民が集まる都市である。国際ニュースには日本に比べてだいぶ時間を割いている。
いつもは英語が明確に分からないため、真剣に見ていない時は雑音認定するくせに、ある日、『パキスタン』という国名が出てきて、すぐにテレビの方に目を向けた。
ペシャワールの学校にテロリストが侵入し、150名近い人々を殺害した事件のニュースであった。
すぐにインターネットで確認し、事件が起きた場所が、自分が訪れたところではないことを知り、安心する。
それと同時に、パキスタンの多くの学校で、規模は小さくとも似たような事件が日常茶飯事に行われており、テロリストへの恐怖故に、ノーベル賞受賞者であるマララさんの本を、学校に置きたくても怖くて置けないということすらわかった。
もし襲撃されたのが私が訪れた都市だったら、私は悲しんだのだろうか。
2014年の3月、パキスタンのカラチというところで同じようなテロが起きて、治安部隊の10人が命を落とした。カラチは私が数日間滞在した街である。
数100メートル先のホテルに行くために何時間もかけて私を護衛し送り届けてくれた彼ら、庭に招いてタバコを一本くれたおじいちゃん、私がわがままを言ったにもかかわらず、結局ちゃんとした手続きを踏まないでも国境付近まで送り届けてくれてたバロチスタンのソルジャーたち。
話した時間は長くて数時間だったけど、襲撃のニュースをインターネットで知った時は、食事が手をつかないというほどではなくても、何かが心に刺さって、彼と一緒にいた風景が頭から離れなかった。
未だに彼らを思い出しながら、多分また会えることはないだろうけど、無事でいることを願う自分がいる。
きっと私は感情豊かな人間ではないかもしれない。
性格はねじ曲がり過ぎて逆にまっすぐなんじゃないのかというほど曲がっている。
素直という言葉には程遠く、何事も潔く受け入れない。
それでも、感情はある。
社会に出てもなく、小さなコミュニティの中でしか生きていなかった私は、東北大震災の時、日本や日本人という大きなくくりに目を向けられなかったのだろう。
東北という場所や人は、当時の私にとってほとんどかかわりがなく、絆を感じれなかったのだろうと思う。
もし今。日本のどこかで震災が起きて、私が本当の意味で何かを感じることが出来るのかは分からない。
それでも、私は私の訪れたパキスタンの都市でテロが起きたこと。
私が出会った人間が被害を受けたかもしれないこと。
それを一生忘れないだろう。
私には見ず知らずに人のために涙を流すだけの豊かさはないかもしれない。
いや、きっと多くの人がそんな豊かさなど持ち合わせていないのだと思う。
パキスタンでテロがあろうが、アメリカでテロがあろうが。
シリア・イラクでアメリカ軍の空爆で死者が出てようが、ISISが大量虐殺してようが。
日本人が二人、自己責任で危険地帯に足を踏み入れて、殺されそうになっていようが。
知らなければ、関係なければ、人は微笑すら投げかけられる。
世界では毎日のように悲惨な事件が起きている。でも多くの人間は見向きもしないじゃないか。嘆かないし悲しみすらしないじゃないか。
間違っていないんだ。彼らは私の世界の中にはいないのだから。
接したこともないような、知らない人間に、多くの人は本気で涙を流せない。
だからきっと。もし自分が感情が薄いんじゃないか、冷酷なんじゃないか。
そう悩んだなら、きっと解決策は、広げることだと思う。世界を。
沢山学んで知ることだと思う。理解をすることだと思う。
一人との出会いがすべてを変えることがある。
『平和』に対して、確実なものなんてないかもしれない。それでも、知ること、出会うこと、話すこと、世界を広げること。
そういった人間を少しでも増やすことが、人々が争いなく助け合って暮らす最初の一歩なんじゃないかと私は思う。