正しいことを言うことが常に正しいこととは限らない。

産経新聞に掲載された作家の曽野綾子さんのコラムが海外のメディアで取り上げられてから、批判という批判を受け、公民共に抗議が殺到しているという話がFBに毎日のように上がっている。

 

『アパルトヘイト称揚!』という見出しと共に。

 

私自身は、曽野綾子さんの記事を読み、決してアパルトヘイトを称揚しているようには感じなかった。むしろ、そんな気持ちがまったくないからこそ、誤解を生むことに気を付けるということに気が回らなかったのではないかと思うほどである。

確かに、人種隔離政策の廃止後に起きた事件を例に出したことは、アパルトヘイトを称揚している捉われかねない上に、コラムの中核をなす話が、人から聞き伝わってきた話というのは、繊細な問題を扱うにしてはどうも不明細な情報な気がする。

また、彼女が本気で『人種隔離政策を称揚』し『強制的に人種ごとに居住区を分ける』ことを考えているのだとしたら許されざるべきことであるし、それこそ批判を受けて当然であると思う。

それでも、曽野綾子さんがコラムにしたことで、きっと『移民』というものに真剣に考えた人もいるだろうし、現に、反論が起きていることが、考える時期だということを物語っている。

 

しかし、このコラムを強く批判する人々を見て、違和感を覚えるときがある。

日本から批判・反論を送っている人たちは、本当に文化のまったく異なる人間と生活を共にしたことがあるのだろうか?

違う国で育ち、文化も考え方も違う人間が、一つの地域でストレスなく、混じり合って仲良く楽しく平和に暮らす。

そんなことが反対意見を黙らせて、『正しい言葉』だけを聞き入れた議論の下でなしえることが出来る簡単なものだと思っているのだろうか?

 

私はここ多人種の都市トロントに住むこと、多くの人種と触れ合えるがこの上なく幸せである。

そして、自分とは違った肌の色、文化圏の人間と混じり合おうと、出来る限りの努力をしているつもりである。

それでも自分が英語をうまく聞き取れず、話せない時は心の中で『ごめん』と何度もつぶやき、その国・場所のマナーに添えていなかった時は、何度も何度も自分自身を責める。

ここは日本ではなく、私の中の常識なんてのは通用しないと強く心に刻んで生きているからだ。
日本の生活をしたいなら、分かりあう気持ちがないなら、今すぐにでも日本行きの航空券を取って、明日にも帰るだろう。

トロントに住む人々の、寛容な心に何度助けられてきたことか分からない。
『いいのよ』と言ってくれるのが分かってるこそ、私は毎回心の中の『ごめんね』を口に出す必要がない。

ただ、それと同時に、海外に出る前の自分が同じ境遇になった場合、それだけ寛容な心を持って移民を受け入れられるかどうか、考えずにはいられない。

私が最初にルームシェアをしたローラは、誰が見てもいい娘だった。
そして私たちが喧嘩別れをした一番の原因は、私の英語力のなさによるものなのは間違いない。

それでも、部屋に険悪なムードが流れてから、多くのことが目についた。
大きな声で話すスペイン語、翌日まで洗わない皿、友達を勝手に連れてくることも、料理のにおいすらも。

今になって思えば、私と彼女の大きな差は、国籍や文化というよりも、男女という性別の違いが一番大きかったように思うが、当時の私は多少でもラテン系の人間が嫌いになりかけて、スペイン語なんて一生聞きたくないと思ったのも事実だ。

ローラと別れた後、一人暮らしを始めたアパートは、私が住んでた二回に上がると、週5日はカレーの匂いが充満していた。

幸い、カレーが大好きな私はそれに嫌悪感を覚えることはなかったが、それだって人によっては絶えられないことなのだろうと思ってしまう。

 

もしも私が日本から一歩も出なくて、海外なんかに微塵も興味がないとして。

そして日本が移民を受け入れ、多くの異なった文化の人間が地元に住むようになる。

ちょっとした買い物で入ったコンビニの店員が、日本語を上手に話せなくて、物一つ買うのにも時間がかかって、街を歩いていると自分が分からない言葉で誰かが爆笑してて、家に帰ると自分のアパートが日本の食事とは思えない匂いを醸し出してる。

追い打ちのように、その地元で起きた何かしらの事件の犯人が、たまたま移民の人だったりする。

 

私はその後に起きる、より強い人種差別による悲劇を想像せずにはいられない。

パリだって、ロンドンだって、イタリアだって、そうなりかねないという空気が充満していた。

こんなに平和とされるトロントだって、どこの糸がどう切れてどう転ぶか分からない、そういう怖さは常に感じている。

だから他文化圏から来た私たちは、気を使って生きなければいけないのだ。

しかし、私が『気を使って生きなければいけない、学ばなければいけない、馴染まなければいけない』と思えるのは、私が自分の意思で、『来たくて』ここに来たからである。

私がトロントに来て最初に借りた家に住んでた中国系の婦人は、英語を一言も話せなかった。
『How are you?』と聞いた時点で、首を横に振る。

キッチンに忘れ物をすると届けてきてくれる、とてもいい婦人であったが、
きっと彼女は『カナダに憧れて』カナダに来たわけではないのだろう。

お金なのか、子供のためなのか、夫の仕事なのかは分からないが、自ら望んでチョイスしたわけではないだろう。

なぜなら彼女の英語に対する拒否反応からは、『学ぶ気も、馴染む気もない』という気持ちが表れていたからである。

労働者として移民を受け入れれば、多くの人間が自国の文化を捨てられずに日本に移民してくることになる。決して『日本の文化』に憧れを持っているわけではない人も、多く移住してくることは間違いないだろう。

そして、そういった人間が数人集まれは、街の形相は一遍する。
昨日までの当たり前は当たり前じゃなくなり、常識は覆される。

私たちはそれを受け入れられるほど、大きな心を持っているだろうか?

日本にいて異なった文化に触れる機会が出来るのなら、私にとってそんなにうれしいことはない。

そして、人種も、育った環境も、文化も異なった人々が混じり合って、何の争いやストレスも偏見もなく平等に平和に暮らすことが出来るなら、そんなに素晴らしいことはないと思うし、もちろん移民を受け入れるなら最終的にそういう国を目指すべきである。

強制的に居住区を分けるべきなんて微塵も思わない。
きっと日本の文化が素晴らしいと思った移民は、日本の文化を学び、そこの中で生きたいと思ってくれることだろう。そして私たちはそう思ってくれるような文化を保つべきである。

ただ、労働者として移民で来る人間全員が争いなく、前から住んでいた隣人たちと上手に暮らして行けるとは思わない。

『上手く馴染めず、自国の文化を捨てられない』そんな移民のために、故郷を感じられる場所を作ってあげるべきであるし、『文化に馴染もうとしない人間を嫌悪する』そんな日本人のための場所も残しといてあげるべきではあると思う。

問題は、ほとんどの人間が、部外者に自分の生まれ育った土地を手渡したくなんてないと思うところである。
『奪われた』『変えられてしまった』と思う人間が出る前に、コミュニティが自然発生し、地元民と摩擦を生む前に、よく考えたうえで移民の『故郷』を作ってあげるのが重要なんじゃないかとは思う。

『私たちはちゃんと交わりあって上手く生きてます!』
海外在住の日本人が、今回の件をそう反論するのは簡単だろう。

でも問題は『馴染めない移民』と『変わってほしくない日本人』という構図をちゃんと考慮した上で考えなければいけない。

移民問題は夢物語を語るだけで実現できるほど甘い問題じゃないんだと、多くの都市がそれに悩み、問題を抱えている前例があるんだと。

だからこそ私たちはいかなる意見も考慮して、最前を考えないといけない。

どの意見だって立派な意見だろう。私はいかに『正しくない』コラムだったとしても、ここまで考えさせてくれた曽野綾子さんのコラムに感謝したい。

ただ一つ、日本で移民として生きる数多くの方々が、それについて傷ついたなら、謝りたい。

貴方がたが、日本国民として何の差別を受けることもなく生きられる社会に、我が国はなるべきであるし、一緒にそうしていってほしい。そうお願いしたい。

考えよう、一緒に。

意見を否定するのは簡単だが、その意見がどうして生まれたのか、一緒に考えよう。
そして全員にとってちょうど良い位置がどこにあるのか、一緒に探し出そうじゃないか。

『知らないうちに勝手に…』なんて許されない、発しないことも一つの意見である。

無言という否定ほど、意味がなく愚かなことはない。

 

考えよう、質問しよう、発信しよう。よりよい未来を考えるなら。

 


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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