自己責任

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先日、日本の皆はきっと、嫌なニュースで起こされたんじゃないだろうか。

中東で日本のジャーナリストが『処刑』をされ、その光景が見せしめのように全世界に流された。

それを聴いて、私は、食事が喉を通らないわけでもなく、一日を暗い気分で過ごしたわけでもない。
前日と変わらない毎日を過ごしていた、9.11や3.11と同じように。
『結局は他人事』と思う自分がいる一方で、非難の言葉に敏感に反応してしまう。

それは、自分に置き換えて考えられるからなのかもしれない。

 

『自己責任』

 

邦人二人が拘束されてから繰り返し耳にして、至る所で目にするこの言葉。
私はここ数週間、この言葉の本当の意味を考えずにはいられなかった。

きっと今回の事件で人々がこの言葉を発する意味は
『やってもいいけど、すべて自己で責任とれよ』
という意味ではなくて

『自己で責任とれないことは、するんじゃないよ』
という意味なのだろう。

これ見よがしな顔をして言う
『ほれみろよ、そんなところ行くべきじゃないんだ、自己責任だよ。責任とれよ。』
と。

 

私たちは生きている限り、何かに属している。

それは、国だとか社会だとか。少なくとも世界の一員であることは間違いがない。
何かに属している人間が行うどんな小さなことに対しても、自己で完璧に責任を取れることなんてあるのだろうか?

病気や怪我をしても。
働けなくなってお金がなくても。
国はそれに一定のサポートをしてくれる。

『怪我をして、自己責任だから、自己で責任を取るよ』

と言って、無理に医療費の全額を支払う日本人はいない。

皆が責任を少しずつ分け合って、それを『気にしない』のが我が国の社会システムだと思っている。

人々は車に乗って、日が暮れた後に外に遊びに言って、横断歩道を渡る。
『自己で責任を取れないことをするべきじゃない。』というのであればそのすべてが自己責任の範囲を超える可能性がある行動であり、上記の考え方で言うのであれば慎むべき行動だ。

『何を大げさな。普通のことじゃないか。』

そう思う人のために一つの例を挙げてみたい。

トロントでの友人の一人に、21歳のメキシコ人のローラがいる。
約一年前、数か月一緒に部屋をシェアしていた、私のトロントでの最初の友人だ。

常に笑顔を絶やさず、挑戦し続ける彼女の言葉から、ネガティブな発言が出てくることはめったにない。『明るく生きる』ということのお手本のような女性である。

そんな彼女が教えてくれたメキシコシティの現状は、日本では考えられなようなことだった。

数年前、彼女が10代だった時、治安の悪さで有名なメキシコシティは、今ほど危険な街ではなく、多くの人間が夜を楽しんでいた。
パーティ好きでクラブ好きなラテンの人々が夜を楽しんでいる情景が目に浮かぶ。

しかしその数年後、地方を拠点にしていたマフィアがメキシコシティ近郊に拠点を移すと、街の治安は一遍して悪くなっていった。

『今年に入って、もう私の友人が5人も殺されたわ』

去年のはじめにローラがその言葉を発した時、友人が死ぬことが、こんなにも日常的なことのように話せるものなのかと驚いた記憶がある。

『特別なことじゃない、それが今のメキシコシティよ』

メキシコが大好きだと。料理はおいしいし、天気はいいし。
酒は安いし、テキーラはおいしい。
友人も家族もみんなが向こうにいる。
それでもメキシコに帰りたくないと言う彼女の思いには、そのようになってしまったメキシコシティの現状もあるのだろう。

先日、そんなローラのお母さんがはるばるメキシコからトロントに娘に会いに来て、チキンウィングを一緒に食べて、カラオケに行った帰り道、時間は夜の1時を回っていた。

『メキシコシティじゃ、この時間は誰も外には出かけないの?』

私がそう聞くと、彼女は
『全員が出かけないわけじゃないけど、9時を過ぎたら、一人にはならないようにするし、車で送り迎えをしてもらうようにする。出歩かないのが基本ね。昔、私が朝の5時に外をランニングしてた時に、強盗にあったことがあるの。彼らからしたらまだ夜だったのね。』

9時というのは、あまりにも早すぎる。そして5時というのはあまりにも遅すぎる…。

中南米を代表する大都市、メキシコシティで日が昇り切る前にランニングをして強盗に会った。
もちろん親は怒るだろう、多くの人が心配するだろう。

でも、言えるだろうか。

『自己責任でしょ』

彼女は人間として何一つ間違ったことをしていない。
マフィアが勝手に近所に引っ越してきて、平和だった生活をめちゃくちゃにしていっただけだ。

それでも、夜9時移行に外出しないということはメキシコシティに住む人々の中で身を守るための暗黙のルールとなっているのだろう。

昨日までの日常が、今日には一遍してしまうこと。
今日までの平安が、明日には争いに変わったこと。

旅中何度聞かされたか分からないそういった悲しき変化は、エコノミスト誌に世界一安全な都市に選ばれた東京だからと言って、起きないとは言い切れない。

そんなとき、私たちは言えるだろうか、変わってしまった街を見て、被害を受けた人々に向けて。

『自己責任でしょ。』

本当は我々が日常で行ってるすべてのことは、責任を分散することで成り立っているのではないだろうか。
誰一人として自己で責任を背負える人間なんていない。

それなのに、日本で発せられる『自己責任』という言葉の裏には。
『僕たちみたいに生きれば、自己で責任を取ってるって言えるんだよ』
と押しつけがましく、『同じ』であることを要求してくる。

ほら、海外なんて行くもんじゃない。
ほら、新卒を捨てるもんじゃない。
ほら、タトゥーなんて入れるもんじゃない。
ほら、中東に人助けに行くもんじゃない。

『自己責任だからな。どうしてくれるんだ。だから『違う』ことをするなと行っただろう。』

その進む先こそ、レイプされた女性に『露出度が高い服を着るあなたが悪い』と言う言葉を平気で投げつけられる発展途上某国と同じ道なのではないか。
女性全員が肌を隠し、日が暮れてからは外に出ない。
それを受け入れるということなんじゃないか。

私は断固拒否する。私は幾つになっても胸の谷間を眺めて通りを歩きたい。

時折、『どうして日本を出て、いまだ帰らないのか。』と考えては、答えが見つからずに夜の雪道を徘徊するときがある。

歩き出せば、理由は無限に出てきて、必然という言葉に行きつく。日本を出る時間だったんだと。

友人に会いに。普通の人生から逃げて。沢木幸太郎と小田実のせいで。

きっとどれも正しい理由なんだと思う。
でもきっと、大きな理由の一つは、背負うことにつかれてしまったのだろう。

『責任』を。

約20年、ことあるごとに自分は他人と違うんだと意識して、それを恥じたことは一度もないけれど、何度もそんな違う自分にくじけそうになったことがある。
言葉として聞かなくても、社会が叫んでくる、重たい荷物を背負わせてくる。

『私たちと同じようにしないのはいいが、責任という大きな荷物を、あなただけが背負ってると思うなよ。』

『貴方のその行為は、私の荷物にもなるのよ。』

『やり方を変えたお前のせいだ。カリキュラム通りに進めないお前のせいだ。言ったように書かないお前のせいだ。規則通り制服を着ないお前のせいだ。言われた通りに思わないお前のせいだ。』
きっとそんな声に耐えられなくなった私は、必然的に、責任をバックパックに背負い変えて日本を出たんだと思う。

違うことが当たり前で、そしてそれを誰の気にも障らない海外での体験は、思い出の数だけ肩を軽くしてくれた。今では違うことで何かを感じることなんて微塵もない。

社会にしがみついてる貴方なんかよりいくらかクールだとさえ自分で思っている。

もしかしたら、行くべきじゃなかったかもしれない。
人を助けに行って、逆に捕まったら、ただの間抜けかもしれない。
政府や駐在員、関係者はおかげで仕事が増えたかもしれない。
おかげで日本国民の平和な日常が少し傾いたかもしれない。

それらに対して自分一人で責任を取れないのなんて百も承知である。

私だってパキスタンとイランの国境を通る時、糞ほどに考えた。

でも、どうして。他人の責任をとってあげようという気持ちにならないのか。

人は皆違う姿をしていて、違うことを考えていて、違う行動をする。

それは、貴方が手の届かないところへ行ってくれたり、貴方が思いつかないようなことをしてくれている。

『違うということは本当に無意味だろうか。無駄な活動だったろうか。無駄な死だろうか。』

政策や対策に様々な意見の違いがあるのはいい。
人命こそが世の中で第一だとも思わない。

ただ、そういった意見の違いの中でも、漢字四文字の冷たい言葉で突き放さないで、一緒に背負うことに喜びを感じれないのだろうか。あなたの責任だって、見知らぬ誰かが一緒に背負ってるんだ。

背負わせることに申し訳なく思うあまり、特出するすることを恐れないで。
背負わせてしまう代わりに、誰かの責任を背負うことを、喜んで。

誰かの責任を背負うとういことこそ、一人で生きてないことの証明であって。貴方がこの世界で孤独じゃないということの確固たる証である。

迷惑なんて、いくらもかけてやれ。
同じなんて、くそくらえ。

その代り、誰かがあなたの片方の肩を必要としていたら。喜んで味方になってあげて。
重たい荷物、一緒に背負ってあげよう。

そういう大きな人間になれるよう、私も一歩一歩進みたい。
そういう社会になるよう、社会も変わっていくといいな。

 


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

4件のコメント

  1. 素晴らしいよ、北斗君!
    常に胸を眺めて歩きたい!分かる!
    目の前でヘルプの声を上げているのに無視できるのか?て言った友人がいたわ。

    1. しげるさん
      お久しぶりです!下ネタを書くとしげさんががコメントくれるからうれしいです(笑)
      でも僕は、後藤さんが取った行動が、日本政府の対処が、『正しい』のか『正しくない』のかは決められないんですよ。もしかしたら答えなんてないのかもしれないけど。
      でも、そんなに責められるべきことなのかな、とは思います。
      なんだか自分が責められてるみたいで…。

  2. 初めまして。たまたまブログ拝見しました。私を含め日本人が考えるべき内容だと思いコメントしてしまいました。例えがとても分かりやすくて感動致しました。誰だって一人で自分の人生に責任を取れるわけありませんもんね。そんな人生つまらないですし。大きなことに挑戦して失敗した時だけ自己責任って都合が良すぎると思いました。自己責任という言葉を使うことで何か考えることを拒否してしまっているような気がしました。自分も含めてですが。

    1. taka様
      コメントありがとうございます。そうですね、一人で頑張ってるつもりでも、実は『誰か』がいるからこそ僕たちはチャレンジし続けられるのかもしれません。そういう意味では、『自己責任』と突き放す人々は、チャレンジを放棄した人間なのかもしれません。そりゃ挑戦しなきゃ他人に迷惑なんて一切かけないだろうけども、そんな人生なんて、、、とは思ってしまいます。

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