2-36. 中間地点-シーラーズ-

P1020621
 私は完全にだらけてしまっている。

歩くのも億劫になる、あれほど熱心に歩いていた街も、今は歩く気にならない。

それがここがイランだからなのか。
言葉が通じないからなのか。
未だに固形物が出るはずの穴から液体が流れ続けてるからなのか。
暑いからなのか。

それとも2ヶ月にして早くも旅に飽きてきているのか。

わからない。ただ、ラホールからの私は、早く街を出ることしか考えていない。
もしかしたら自然に飢えているのかもしれない。

私にとってイランという国は、今回の旅において、絶対に通って、見たかったところである。
それは、私が短期旅行者であったら、訪れなかったであろう場所だからであり、私の想像力の働かない、未知の国であったからだ。

しかし、来て見るとこの国は、あまりこの国にらしさを保ってはいない。
モスクがあることぐらいである。

人々の好物はファーストフードであり、ペプシである。

男性も、女性も私の想像するような特別なものはなにもなく、ただ義務的に『宗教的な』生活や格好をしているような気がする。

日本と違う点といえば、政治への真剣な取り組み方である。
どんな不良スタイルの若者でも、贔屓にしている大統領候補者がいる。
それは、彼らのような若い世代が、現実的な側面からこの国を変えて行こうとしているからなのだろう。

きっと、国が宗教国家であることをやめれば、我先にと欧米へと染まっていくだろう。
そして、私は今この国の分岐点にいる。

今日、新たな大統領が決まる。

この足取りの重さは私がヨーロッパに近づいている証なのかもしれない。
この二ヶ月という時期も、場所的にも、今私がいるのは私の旅の丁度中間地点である。
それはつまり、引き返すことも、目的にに急ぐことも、許されないのだ。

美しさと豊かさは、同様に退屈も与えるのかもしれない。

もしかしたら私が日本で感じていた『退屈さ』は、こういうことなのかもしれないとも思った。
日々、なにも起こさないことを心がければ、なにも起きずに通り過ぎてしまう。
向こうから何もやってこない。
アジアの混沌から、抜け出したのかもしれない。
その先にあるのが、もしかしたら日本と変わらぬ退屈な日常かもしれないが、もしかしたらそこには私が日本で生きる上で幸せの心を持つためのヒントがあるのかもしれない。

バスの中で聞かれた
『日本は、イランとどう違うの?』
答えられなかった、何も、大きな違いなど感じることができなかったからである。
この国が変わるのか、それともより変わらぬ国へと変わって行くのか。
私が言えることといえば、イランは変化の渦中にあるということぐらいである。

自国で生活していては気づかない。

その国の個性とは?アイデンティティとは?
自国にいたのではあまり重要視することはない。
しかし私は外国を旅して来て、つくづく思う。

日本は、と聞かれた時に皆を驚かせられるような素晴らしい個性を、持っている日本でありたいと。
それを作るのは、これからの私たちなのだから。

追記:イランの大統領選挙の結果、改革派であるロウハニ氏が過半数を得て勝利した。選挙前の宣言がいかにその後の政治に反映されないかは、日本の皆なら存じの通りだろうが、それでも国民が保守派や強硬派ではなく改革を選んだのは大きな意味を成す。当選後のインタビューからも、国民の声からも、イランと言う国が今後国際化していくのは間違いないだろう。これが『今』旅をする意味である。今の国は、今しか見れないのだ。来年より、アメリカの制裁がなくなれば、この国はだいぶ変わるだろう。今のイランを少しでも、見おさめておかなければ。しかし、イランが国際的により友好的に生きるためには、イラン人が『イランに対するリスペクト』と言うように、我々の誤解した見解から変えていかなければいけない、皆で変えていこう。少なくとも私は、日本人がどこに行っても評価の高い、そういう民族でいられるような外交を我が国に求める。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です