2-45. この先のルートと人生を考える-トビリシ-

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私は本当に我儘な人間だなぁ、とつくづく思う。

旅をしていると、家庭の事情で帰国しなきゃいけない人にも出会うし、多くのものを捨ててきた人にも出会う。
私の高校の後輩は出国もできなかったりする。
大学の友人には、そんなことをする余裕のない友人もたくさんいる。

つまりは私はとっても贅沢なことをしているのです。

もちろん、両親の支援を受けたからと言って、その旅が有意義なものじゃないか、捨てるものがないから、覚悟がないからいけないか、そんなことはまったく思わない。
ただ、自分が贅沢なことをしているっていう思いは捨ててはいけないんだ、と言う気持ちは常に持つようにしなければいけないと思っている。

だけれども、私の旅の副題はチャレンジであったわけで、デリーからロンドンまで陸路でたどり着ければ、それだけで自分の中ですごいことだと思っていた自分が、この国に来てから行き詰っている。

ここからは、今までの旅とは比べ物にならないぐらいに簡単に移動ができる。
そしてここには、世界を自転車で旅している人が沢山泊まっている。

『世界を旅するだけですごい』

出国前にそう思っていた私からすると、彼らの存在は、『通るだけなら簡単なんだ』と私を思わせることになる。
つまりはもうチャレンジでもなんでもないってことである。

『贅沢なことをしているなら思いっきり贅沢なことをしたほうがいい』

そう思ったりもする。

ヨーロッパを回った友人の写真や話を見て、話を聞くと、そのような美しい景色や自然を見てみたい気持ちもできたりするが。
やはり出国するときに、『ただの旅行は嫌だな…』と思っていたからか、それが自分のしたかったことじゃない気もしてくる。
だからといって『貧富の差問題を考える』とか言って地方と主要都市を回るというのもなんだか違う気がする。

贅沢なことをしているのに、それを生かす基準をもってないなぁ

と我儘な自分に嫌気がさしてくる。

つまりは、私は旅をしたくて旅に出たのではないのだと、じゃぁなぜ旅に出たんだと?
まぁそれは俗にいう『自分探し』であって、考える時間と視野の広さ、そしてチャレンジ精神を鍛えるためであった。

なのにこの様である。
これだけではただ『通り過ぎた』だけで終わってしまうのではないかという恐怖がある。

つまりは何かにつけて理由をつけたがる自分の性格上、将来を考えたうえでこの先を考えないと、何ら有意義な旅はできないこということなのである。

ここまではそんな気持ちは生まれなかった。通るだけで大変だったから。
でもここからは、どういう視点で世界を見るのか、考えないといけないのだ。

私がイランからコーカサスに来たのもそのように思ったからであった。
ヨーロッパという『金さえあれば簡単な国』に入るのを恐れて、『聞いたこともない国なら大変だろう』と思い入国したのに、入ってみればもう私のなかのヨーロッパのように美しく、簡単である。

誤解を招かないで言うと、ヨーロッパから来た人々に言わせればこの町は汚いしヨーロッパではないらしい。
主要都市以外の人間は何も持っていなく、高級車が走るのも都市部だけである。
田舎を見た人の感想は『何もない』であった。

グルジアは、アルメニアと比べると少し無機質な感じも受ける。
物乞いの子供も多く、街の色が暗い。
冬が雨が似合いそうで、それは私のイメージするロシア・ソ連だったりする。
街を歩くと姿を見せる多くの小売店と商売精神のなさもその名残だったりするのだが。

別にそんなことを語りたいがために旅をしてるわけじゃないんだなぁ…

と思ってしまう。つまりは優柔不断で我儘な自分なのであるのだ。

勉強がしたい、技術がほしい。
求められるだけの。

求められることに飢えているのかもしれない。
生産することを求めているのかもしれない。

いや、いいのかもしれない。
日本で出会えない人々に会えて、日本でできない経験と考えを持つ。
それでいいのかもしれない。

ただ、そのさきの結論付けを持ちたいという気持ちをもってこの先の一か月を過ごさないといけない。

『何を得て、どう変わったのか。』

分岐点にいるのだな、とつくづく感じる日常である。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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