4-1. ひとひらの

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とうに過ぎ去った2015年の4月頃の話である。
トロントの東側に位置するフランス語圏モントリオールへの旅行で再会した女性と、恋に落ちた。

それは、海外へ向けていた目も、自分のこだわりも、それまで固執していた自由への欲望も、その全てを捨ててでも一緒にいたいと思えるほどの恋であった。
そして、そんな大きな大きな感情が相手にも伝わったのか、私は一ヶ月も立たぬうちにヒビ割れたパソコンの画面の向こう側から淡々とした口調で始めからなかったことのように捨てられることになった。

寝る間を惜しんで、頭を高速回転させ、柄にもないようなバラ色の人生プランを完璧に構想していた私は、あれだけ否定していた世界男女二人旅や、南米絶景旅行、帰国後の不自由ばかりだけれども二人で自由のある生活を、自分がやっとの事で見つけ出した相手と満喫出来ないことを知って、それまで人生でそんなことに微塵も憧れがなかったくせに、まるで今までずっと望んでいた全ての未来が一瞬にして崩れ落ちたように、絶望を味わい、三日間も禁じていたタバコを一箱吸い、週に一本しか飲まない麦酒を6本も呑んで、昼間から床に転がり落ち、涙を流す前に、泣き叫んだ後の喪失感を一人で味わっていた。

もしも、このままカナダを離れていたら、私は2年前のユーラシア大陸での冒険も、2年間のカナダでの生活も、全てなかったことにして、失恋という虚無感のみをバックパックに詰め込んで、まるで机の上しか知らない18歳の青年が、受験勉強に敗れた時のように、すべてを失ったかのような敗北の顔をして、帰国していただろうと思う。

しかし、捨てる神いれば、拾う神は、やはりいるのである。
幸いなことに、私の神様は、迅速な対応力で、『おい、神よ、早く拾え。』といったクレームが起きる前に、私を拾い上げてくれた。

女性から『もう、貴方に何の感情もないから。』と言われた2日後である。

『ここで働かないか?』と当時、インターン生として働かせてもらっていた、和包丁のお店のオーナーから、オファーを受けることとなる。
そんな話をされた時、頭の中がまた回りだし、一度構成した幸せな人生を上書きし始めたのが分かった。

話は遡り、神に捨てられ、拾われる約一ヶ月と少し前、モントリオールで恋に落ちる一週間ほど前、それまでお世話になっていた場所を離れた私は、カナダ、トロントを離れることに決め、その後の人生を考え始めていた。
それまで貯めてあったお金で、アメリカ・南米あたりを回り、それでもお金が余っていたらヨーロッパから逆回りで日本に帰国することを考えていた。
それまでの一年半のトロントの生活でできた多くのアメリカ・中南米の友人達をめぐる、楽しい旅になる予定だった。
しかし、そこには一つだけ、もやもやとした、吹っ切れない感情があった。
私はもう知ってしまっていたのかもしれない。初めて上海に降り立ったあの感動を。地図を片手に半壊した民家を横切るあのドキドキ感を、同じようなことを繰り返すことでは手に入れられないことを。
私がこれから行こうとしている道は、もうすでに誰かが通った道であるということを、それも一人や二人ではない、多くの人間がなぞるように歩んだ場所だということを、私はすでに知ってしまっている。
そして、その時に感じるものは、私がそこに辿るつくまでに感じたそれと類似したものになるはずだ。あの、特殊な、感じたことのない高揚感はきっともう感じることはないのではないか。
悩んだ末、あと数か月だけ、トロントでできること。
ある意味で、トロントという町に諦めを付けるために、インターンとしての職場探しを始めた。
物書き、映像そして包丁屋がその時の私のインターン先の候補であったのだが、その中で包丁屋のみが定期的に働かせていただき、そこにいる日々が、私を包丁や砥と言った世界に浸からせていった。

DJのアンディが初めて家に招いてくれた時に、聞かせてくれたことがある。
偏った性癖、SMなどが好きな彼ら。つまり少数派の感性を持つ人々は、そんな小さな趣味の集まりで小さな世界で生きていると思うか?
彼が言ったのは、つまりはマイノリティが持つ世界の大きさであった。
そんな性的に変わった趣向を持つ人々は、とても狭い世界で窮屈に生きているように見えて、パリやロンドンの人ととも、NYや南米とも、日本やアジアの人とだって繋がっているんだ。ある特定の変わった趣向の中に住む人間ほど、外側の遠くの人間とつながっているというものであった。
さて、性的思考に限らずとも、こういった『特殊な趣味・感性』を持つ者が集まるもの、いわゆる外れもののような人間が集まって作り上げる空間には、独特の匂いがある。
私はそんな独特な匂いに引きつかれながらも、いつもそこに浸かれずにいる人間である。恐れていたのである。そんな『何か』の空間に入り込むことで、カテゴライズされる『何か』になってしまうことを。
私が働き始めたお店、Tosho Knife Artsにはそんな空間が充満していた。
しかも、そこには外部から汚いものと嫌われたり、避けられたりするものでもなく、ただ単純に、『一般に生きている人間には理解できない世界』が充満していたのだ。
それは、日本では伝統工芸と言われるほど由緒正しき職業であるし、それに携わる人間もたくさんいる。お金も生んでいるし、昔は町に一人はいたものなのであろう。
『研ぎ師』
20歳もそこそこの若い人間が集まり、何やら先のとがった金属を石にこすり付け、そこにできたひっかき傷を見て、なにやら喜んでいるのである。
そしてその金属も、石も、または作法すらも日本より伝来してきたものらしい。

なんだそれ、知らない。分からない。

と言ったのが私の最初の感想であった。
もちろん、砥石を使った砥ぎは居酒屋で働いていた時代に行っていたのだが、そこに、西洋人も魅了するような『魅力』が詰まっているとも思いもしなかった。
そこで働く従業員の中に、日本の中にいる職人と直接的につながっているものはいなく、皆がインターネットや書籍等から出来る限りの情報を集め、意見交換をしている。
日本人は文化に入り込み、深く掘り下げ、整理することが得意である。
それが故、ふたを開けてみると他国がうらやむほど、歴史が刻まれ極められた文化がたくさんある。
しかし、それを外部に伝えることがこの上なく苦手な人たちである。
北米に包丁ブームが到来して、これだけ多くの包丁が外国人の手に渡ったにも関わらず、それに関わる日本人の少なさはそういったところからきているのかもしれない。
それゆえに、外国に根付き始めている『包丁』や『砥ぎ』の文化は、日本のそれと違った発展を見せつつあるように見える。
例えば西洋の文化が、日本に入り、西洋のそれとは全く別の、それでいて西洋のそれらが見直さなければならない独自の文化へと昇華するように、東洋の文化が西洋の社会と出会った時に起きる変化を、私は見たくて仕方なかった。

不思議な若者たちが集まる包丁店には、大工を目指す20歳の青年、日本料理を勉強する23歳の青年、前店長であり、私に研ぎを一から教えてくれたフィリピン系移民の元シェフと、その前店長が辞めてから、一緒に店の山場を乗り越えてきた24歳の青年、そして私に働くことを提案してくれた、シングルマザーのオーナーがいた。
この若者たちは、きっとどこかで日本という国と交わることがあるのである。
もし、彼らが本当に伝承出来る物なら、いつか『外国人』としてではなく、一人の職人として日本と交わるときがくるはずである。
その時、ここでなら私にしかできないことがあるように思えた。他の誰でもなく、私しかできないもの。
他の誰もが差し伸べない手を、今まで差し伸べてもらった多くの手の恩返しとして、出来るのではないかと考えるようになった。
そうすることで、遠い島国から伝わってきた文化のひとひらの行き先を見届けたくなったのである。

オーナーの提案の二日後には『よろこんで』と返事をし、私は包丁店で働き始めた。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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