4-2. 出国

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私を受け入れてくれたトロントの包丁店には、私が働き始めた当時、4人の人間が携わっていたのだが、私が初めてお店を訪れたその日に、店を切り盛りしていたオーナーの一人は日本で研ぎ師となるために発ってしまい、その後、私に研ぎの基礎を教えてくれた師匠は、数か月後に祖国であるフィリピンに帰ることを決めていた。もう一人のオーナーであり、私に店で働くことを提案してくれた女性は、一人親として立つこともままらない息子の世話でお店に顔を出せるのは週に一・二回ほどであった。そして、研ぎが大好きな大工の卵であるもう一人の従業員は、二十歳にもならないパートタイムであった。

私が快く働くことを承諾した時期、包丁屋は存続の危機に面していたのだ。

その後、私に研ぎや包丁についての深い知識を教えてくれることになる、同世代の男が、店長のあとを継ぎ、お店はなんとか存続することができるという状態へとなっていった。

包丁や研ぎ、砥石などの知識が皆無だった私は、毎日質問を繰り返し、閉店後、日を跨ぐまで研ぎを練習し、帰ってからはインターネットで調べものをする日々が日常となっていった。

調べてみて、見えてくるのは、日本の包丁や刃物愛好家とは違った発展を遂げてきた欧米諸国での包丁ブームの動きであった。

日本の包丁は、ここ3-4年でムーブメントといえるほど、海外で大きな人気となっている。
その背景にあるのは、第一として外食産業の盛り上がりがあるだろう。

日本で90年代に放送されていた『料理の鉄人』というテレビ番組が、アメリカでリメイクされ『Iron Chef』として放送されたり、その他多くの料理・料理紹介番組が連日放送され、Youtubeなどのソーシャルメディアでは毎日、目を通すことができないほど『食』についてのクオリティの高い動画がアップされている。
とりわけ、『Jiro Dreams of Sushi』(邦題:二郎は鮨の夢を見る)のヒットにもみられるように、和食や日本料理、日本の食に対する心構えなどといったものに憧れを抱く、若きシェフや食通達も増えてきている。

こうした背景の中、当時、工場生産品を扱う数社しか行っていなかった包丁の海外輸出を、職人の鍛造品、日本でいういわゆる『高級刃物』を扱うメーカーが行うようになり、それにいち早く目を付けた料理人、刃物オタク、そしてインターネットの掲示板の住人達を通して、ムーブメントに火が付くようになっていった。

日本の包丁を作る技術が他国に比べてここまで発達していったのは、魚を食す文化があったからだというのはよく言われる説らしく、とりわけ刺身や寿司を食す文化が、ここまで刃先にこだわった包丁を生み出し、その技術は現在においても機械生産では再現することのできないほどである。

私の推測ではあるのだが、アメリカ・フランス・イタリア料理といったものに括られない独創的な種類の料理を作り始める英語圏のレストランが増え始め、それまで標準的な西洋料理を作るのに必要のなかった鋭利な刃物を求めるようにもなったのかもしれない。

また、日本の料理・包丁から研ぎに至るまで、『日本で料理人として』という一冊の本がかけるほど、整頓された食文化はほかの国には珍しいのではないだろうか。

こういった食材には、こういった包丁を使い、このように包丁を握って、このように切る。
こういった包丁はこのような石を使ってこのように研ぐ。

このように整理整頓されたある種の決まりのようなものは、西洋人を探求させるために大きな役割を果たしたのではないかと思われる。
日本の料理人の多くが、『切れ味が続き、研ぎ安く、それに見合った値段ならいい』という単純で実質に重きを置いた判断基準の元、師匠または過去に自分が使い続けていたメーカーという、それまでの自分が用いていたものに価値を見出す中、それまで日本の包丁を扱う習慣がなかった多くの海外のシェフが、インターネットで下調べを入念に行った結果、鋼材や産地といったものとは別に、どのような訓練を積んで、どれほど伝統のあるなんという名前の鍛冶屋が鍛造した包丁なのかというものまで気にして包丁を買うのを見ていると、ある意味アメリカをはじめとする英語圏の人間たちが、それまで主流であった使い捨ての文化から自分が使うお金の後ろのストーリーに価値を見出そうとする様がうかがえる。

そういったアメリカと日本の包丁に対する考え方の違いを、日々肌で感じながらも、私は私の同僚と、突然任された店に訪れる危機を、励ましあって乗り越えてきた。

ある日、電話がかかってきて、いきなり怒鳴られたことがある。
『俺の包丁に何てことをしてくれたんだ?店の雰囲気は変わり、若者ばっかりになって、おまけに英語もろくにしゃべれないような奴が働いてる。』
ようは、私の同僚が行った研ぎが、彼には合わなかっただけなのだが、私が『We are so sorry』と繰り返していると、『お前はそれしか言えないのか?英語を話せないのか?』と怒鳴られる始末であった。

正直、私の英語は、包丁屋で働き始めるようになってから各段に上手くなっていってる実感があった。
毎日違う人間と接客を繰り返すと、以前より英語のリズムに対して柔軟になっていくのがわかってきていたのだが。
それでも、やはり彼らからすればまだ『しゃべれない』といえるほどのものだったのだと、この時ほど落ち込んだことは、正直カナダ生活では初めてだったのではないだろうか。

それでも、必死に店を切り盛りしていく中で、常連客とも仲良くなり、私たちを目当てにお店に来てくれる人も増えつつあった中、当時ビザの申請をお願いしていたコンサルタント会社から連絡があり、悲しい結論を告げられる。

労働ビザの取得が難しくなり、申請をあきらめてしまったのだ。

それを聞いた翌日、私はオーナーと目を赤くしながら話し合ったのを覚えている。

カナダの外国人労働者の雇用規約は、毎年のように厳しくなっていく中、申請基準や方法が日々変わって言っているのである。そんな中、コンサルタントはこのまま申請の工程を続けていても、拒否される可能性が高いと判断したのだ。

『こんな簡単には諦めたくない』

と目を赤くしながら言ってくれたオーナーを見て、私はカナダに残る覚悟を強く決めた。

その後、たまたま出会った日本人が紹介してくれた弁護士事務所に話をすると、可能性は低くないのでトライしてみましょうということになったのだが、そのとき、無償インターンとして働いていた私の懐事情はだいぶ悪く、これからまたビザが通る半年間をカナダで待ち続けるのは苦しい状況となっていた。

オーナーの、日本の取引先へのあいさつ巡りに合わせて、私は2年ぶりに日本に帰ることを決めた。
2015年の11月のことであった。気づけば私は半年間も貯金を切り崩しながら包丁屋で働いていたのだ。お金のことなど一切気にしなかった、それが一生続けばいいと思えるほどに楽しいものに出会えた気がした。

唯一、冬のトロントを経験しなくていいということだけに喜びを見出して、13時間の飛行機を乗り、日本へと帰っていった。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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