生きる『意味』生きる『意味』

ある日、

もういつなのか、幾つの時なのかも思い出せない、ただ区切りとして存在している『ある日』。

『ある日』から、私は理由もなくただ笑うことが出来なくなり、
理由もなくただ遊びまわることができなくなった。

『ある日』。私はテレビゲームをしていた。
どんなゲームをしていたのかすら今では思い出せないが、
テレビゲームをしていたその時、ふと、急に、なぜかわからずにこんなことを思ってしまった。
『何の意味があるのだろう?』
私がこのテレビゲームをプレイして何の意味があるのだろう?
私がこのテレビゲームをクリアして何の意味があるのだろう?
ゲーム機と接続されたテレビ画面からは昔のゲームとは比べられないほどリアルになったキャラクターがまるで本物の人間が動いているかのように動いている。
しかし、私がやっている作業は、昔のテレビゲームとさほど変わらない。
数種類のボタンとスティックを横に倒しているだけの操作じゃないか。
そしてこのテレビゲームをクリアしたところで何かが得られるわけではない。

いつなのか、幾つなのかわからない。でもこの瞬間から私はすべてに『理由』を考えるようになってしまった。

目の前には友達、酒と馬鹿話で笑う。

『…何の意味があるのだろう?』
酒を飲むだけ、話しているだけ、なんのためにもならない、何の意味もない。

ベッドの上、暗闇の中で動く私と女

『…何の意味があるのだろう?』
子供なんて欲しくない。ただ腰を振ってるだけ、精子を出しちゃえばもう別に後はどうだっていい。

すべてのことの『意味』を考えるようになってしまった。

よくよく考えてみると、私たちが日常の中で行っているほとんどのことがテレビゲームとなんら変わりがない、無意味で、無駄なことなんじゃないのかと思うようになってくる。

どうして洋服を買っているんだろう?
どうしてお金がほしいんだろう?
どうして人々は家や車を欲しがるの?
どうしてセックスしたいの?
どうして結婚なんてしたがるの?
どうして子供がほしいの?

洋服なんて言ってしまえば布を縫い合わせただけじゃないか
金なんて紙切れ
家なんて板と棒、車なんて金属の組み合わせ
セックスなんて子供作るため、地球の人口はもう満杯
結婚なんてただの届け出。
当然のように突き詰めて、『なんで生きているんだろう?』という問いにぶち当たる。

どうして人々は生きていきたがるのだろう?

お金を稼ぐ、家を買う、いい服を着る、家や車を買う、結婚して子供を産む。
人生においてこんな表面的なこと以外に謳歌する喜びを学んでこなかった私は大いに悩んだ。
悩み悩んで、孤独になった。

一人だったわけではなく、打ち解けられる友人がいなかったわけじゃない。

どうしてみんな ax²+bx+c=0がどのように展開されてx=(√(-b±√(b²-4ac)))/2a になるって理解してなくて二次方程式を解けるの??

どうして理由なくただ、生きてられるのか?

アドバイスする人の多くが『死んだ後に考えろ』やら『生きてる間はわからない』やら。

まるで公式は公式だけ覚えれば別にいいじゃん。
深く考えるなよ、間なんて関係ないよと言われているようなものだった。

極論を言えば、友達や恋人などの存在理由などなく、逆に言えば彼らにとって私が必要な理由もないわけで、ただ単に一人になりたくないという人間の性なのならば、別に私じゃなくたっていいわけだ。

現に、進学や就職で友人と離れ離れになっても、皆代わりを見つけ出す。
別れた女は翌週には彼氏を見つけ出して、私との思い出などなかったことにしようとしているじゃないか!あんなにセックスしたのに!

それでも人々は生き生きと世の中を生きている。

そう、必ず理由があるはずなのだ。

今なら少しわかる。
世の中に糞の数ほどあるラブソング、阿呆みたいに皆が高らかに叫ぶ友情や絆。
FBにまるでコピー&ペーストしたかのように溢れ出す『子供を溺愛するポスト』。

誰もが育っていくうちに、『理由もなく』それが意味だと理解して、それを求めてさまよい続ける。
その言葉はくだらないけども、ありきたりだけども、きっと『愛』なんだと思う。

というよりも、丁寧に、疑いのない『愛』を誰かに認識してもらうことがきっと、その人が『理由もなく』生き続けられる最たる方法なんだろうと思う。

疑問を覚えた数が、愛されているという安心を感じるハードルを上げている

以下に紹介するのは、2012年(平成24年)10月から行われた漫画『黒子のバスケ』の作者・藤巻忠俊や作品の関係先各所を標的とした一連の脅迫事件の容疑者の最終意見陳述である。

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない

をFBにシェアで流れてきて知った。見た人も多いんじゃないかと思う。

以下、最終意見陳述全文リンク

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述2 地獄だった小学校の6年間(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述3 事件を起こした動機(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述4 「黒子のバスケ」作者について(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述5 「無敵の人」(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述6 EXOにこだわる理由(篠田博之).
もちろん私の生涯は被告人のように暗いものではなかった、親からも一定の愛情は注がれてそだっているはずである。
そして彼の冒した犯罪を肯定するつもりは微塵もないことは伝えておきたい。

自暴自棄、という言葉が正しいのかはわからないけども、結局のところ、彼は何も望まなくなった上で、この世の中に、自分に絶望したんだと思う。
自分にも、世の中にも未練はない、まさに『無敵の人』なのだろう。

この意見陳述は、私がいつも鼻で笑っているような、『自分とは違う思考回路の人』と思っていた犯罪者が、自分とはなんら変わりのない思考の末
たどり着いた道がただ犯罪だっただけということを気づかせてくれた。

意見陳述の中で時折出てくる『楽しい時間』や『もったいない言葉を頂きました』という言葉を見ていると、どうしても彼が自殺願望があるようには思えなくなってくる。
それでもなお涙を流さずに『無敵の人』でられる理由は、今までの『安心』というものに対する疑いの数なのではないだろうか。

孤独だから、世界を壊しに行く。壊しに行けば、意味ができる。

今や全世界で過激派テロ組織として名をはせているISIS。
今までのテロ組織とは比べ物にならない資金力と残忍性で名を売っているこの国際的テロ組織に入ろうと試みる若者たちですら『黒子のバスケ』の容疑者となんら変わらない動機なのではと思えてくる。

北大生、イスラム教に入信=モスク通い渡航準備-「就職うまくいかず」・警視庁

北大生の『就職うまくいかず』という言葉を聞き、きっと笑った人がいると思う。

私も微笑して、きっと皆も思ったように私も思った。

『その行動力があれば就職できると思う。』

確かにそうだ、ただ、『就職がうまくいかず』という言葉は、本当に就職できない時だけに使われるのだろうか。
誰だって希望がある。きっと自己分析もして、自分にどのような職種が合っているのかも考えたのだろう。

でも自分が希望した職種には一切内定はもらえない。
または、自己分析とやらをした時点で、『自分にあった職種というよりも、自分は何にもあっていない』と気づいてしまうのではないだろうか?

就職活動は自分の存在意義を底辺までと叩き落とす機会になりかねない。
面接を受けているうちに、きっと思うはずだ。

『誰だっていいんだ…』

現に私は思った。
もちろん会社が、何のスキルもない私を欲するはずなんてなく。当然私じゃなくたって優秀なら会社は誰だっていいのだ。

私は交換可能な会社の部品の一部にしかなり得なく、世の中に立っているのが私である意味なんて微塵としてなかった。

それは社会に対する不満や不信感ではない。自分に対する絶望なのだ。
就職活動を始めるまでは、なんとなく抱いていた『自分という価値』を全否定される。

私に価値なんてないんだ。意味なんてないんだと。

イスラム国に参加する欧州出身兵士の多くは先進諸国の裕福な国出身であるという。

もちろん、その中でも貧乏な家庭出身の人もいるだろう、ただそれらの国々出身の人々が『食うに困って』志願したとは思えない。

裕福になればなるほど、その国に対する対する自分の役割は小さくなる。

多くのことがシステム化され、誰でもできる簡単なことしか任されなくなる。

私がいなくても人口は変わらない。
私がいなくてもGDPになんら影響はない。
私がいなくても毎朝の光景は変わらなくて、きっと流れ作業のように世の中は動いている。

私はその中の、『動かなくても大丈夫な歯車』の一つでしかない。
無意味な存在なんだと。

きっと思ってしまうのではないだろうか?

そんなときに過激派テロ組織を知る。

こんな世界どうでもいいもの、だって私なんてどうでもいいんだもの。

自分に絶望したうえ、何も望まなくなる。人が生きようが、死のうがどうだっていい。

でも、そこにはきっと『意味』ができる。だって少数派じゃないの。と。必要とされるはずだと。

この小さな社会に貴方が必要

私たちはきっとグローバルになりすぎた。
広い世界を見ることが美徳化されすぎて、きっと視野を広げすぎた。
でも一国の大統領よりも、一家の主が大切だ。
隣県の知事よりも、あのコンビニの店員さんが大切だ。

私たちは実はものすごく小さな世界で生きている。
皆、小さな社会の集合体の中で生きてるんだ。

今朝、外の庭をはき掃除していたら、多くの人が声をかけてくれた。
『Good Job!』と言って自転車で通り過ぎるおばさん。
犬の散歩に行く手前、話しかけてくれた近所のおじちゃん。
嬉しくなって隣まで掃除してあげたら満面の笑みで喜んでくれた。

コンビニに行ってタバコを買おうとしたら『君は大丈夫、いつも来てくれてるでしょ?』

『元気かい?』『元気だよ、君は?』
毎日のように繰り返される挨拶。

まるで互いに確認をしあっているようだ。『君は必要なんだよ』『君もだよ』と。

ここトロントに住んで、私が生きる理由を考え始めてしまった『いつか』に比べるといくらか生きていける気がしてきてる。
それはきっと、この街と私の周りの暖かい人々のおかげなんだと思う。

日本にいたときに、なぜか蓄積された愛というものへの『疑い』が、少しずつ減ってきているのが分かる。

まだまだ自分がそうやって人に、価値を与えることはできてないかもしれないけど。
そういう風になっていきたいと、そう思う一日であった。

皆も、周りにいる人々に、わかっていると勘違いせずに、必要としているということを表してあげてください。
もしかしたらその人も『理由』の悪魔にとらわれているかもしれない。

相互に、必要なんだ、一方通行じゃダメなんだ。
社会とは本来そういうものであるべきなんだと。

思えただけでもきっと私がここにいる意味はあるのだろう。

 

ある日、

もういつなのか、幾つの時なのかも思い出せない、ただ区切りとして存在している『ある日』。

『ある日』から、私は理由もなくただ笑うことが出来なくなり、
理由もなくただ遊びまわることができなくなった。

『ある日』。私はテレビゲームをしていた。
どんなゲームをしていたのかすら今では思い出せないが、
テレビゲームをしていたその時、ふと、急に、なぜかわからずにこんなことを思ってしまった。
『何の意味があるのだろう?』
私がこのテレビゲームをプレイして何の意味があるのだろう?
私がこのテレビゲームをクリアして何の意味があるのだろう?
ゲーム機と接続されたテレビ画面からは昔のゲームとは比べられないほどリアルになったキャラクターがまるで本物の人間が動いているかのように動いている。
しかし、私がやっている作業は、昔のテレビゲームとさほど変わらない。
数種類のボタンとスティックを横に倒しているだけの操作じゃないか。
そしてこのテレビゲームをクリアしたところで何かが得られるわけではない。

いつなのか、幾つなのかわからない。でもこの瞬間から私はすべてに『理由』を考えるようになってしまった。

目の前には友達、酒と馬鹿話で笑う。

『…何の意味があるのだろう?』
酒を飲むだけ、話しているだけ、なんのためにもならない、何の意味もない。

ベッドの上、暗闇の中で動く私と女

『…何の意味があるのだろう?』
子供なんて欲しくない。ただ腰を振ってるだけ、精子を出しちゃえばもう別に後はどうだっていい。

すべてのことの『意味』を考えるようになってしまった。

よくよく考えてみると、私たちが日常の中で行っているほとんどのことがテレビゲームとなんら変わりがない、無意味で、無駄なことなんじゃないのかと思うようになってくる。

どうして洋服を買っているんだろう?
どうしてお金がほしいんだろう?
どうして人々は家や車を欲しがるの?
どうしてセックスしたいの?
どうして結婚なんてしたがるの?
どうして子供がほしいの?

洋服なんて言ってしまえば布を縫い合わせただけじゃないか
金なんて紙切れ
家なんて板と棒、車なんて金属の組み合わせ
セックスなんて子供作るため、地球の人口はもう満杯
結婚なんてただの届け出。
当然のように突き詰めて、『なんで生きているんだろう?』という問いにぶち当たる。

どうして人々は生きていきたがるのだろう?

お金を稼ぐ、家を買う、いい服を着る、家や車を買う、結婚して子供を産む。
人生においてこんな表面的なこと以外に謳歌する喜びを学んでこなかった私は大いに悩んだ。
悩み悩んで、孤独になった。

一人だったわけではなく、打ち解けられる友人がいなかったわけじゃない。

どうしてみんな ax²+bx+c=0がどのように展開されてx=(√(-b±√(b²-4ac)))/2a になるって理解してなくて二次方程式を解けるの??

どうして理由なくただ、生きてられるのか?

アドバイスする人の多くが『死んだ後に考えろ』やら『生きてる間はわからない』やら。

まるで公式は公式だけ覚えれば別にいいじゃん。
深く考えるなよ、間なんて関係ないよと言われているようなものだった。

極論を言えば、友達や恋人などの存在理由などなく、逆に言えば彼らにとって私が必要な理由もないわけで、ただ単に一人になりたくないという人間の性なのならば、別に私じゃなくたっていいわけだ。

現に、進学や就職で友人と離れ離れになっても、皆代わりを見つけ出す。
別れた女は翌週には彼氏を見つけ出して、私との思い出などなかったことにしようとしているじゃないか!あんなにセックスしたのに!

それでも人々は生き生きと世の中を生きている。

そう、必ず理由があるはずなのだ。

今なら少しわかる。
世の中に糞の数ほどあるラブソング、阿呆みたいに皆が高らかに叫ぶ友情や絆。
FBにまるでコピー&ペーストしたかのように溢れ出す『子供を溺愛するポスト』。

誰もが育っていくうちに、『理由もなく』それが意味だと理解して、それを求めてさまよい続ける。
その言葉はくだらないけども、ありきたりだけども、きっと『愛』なんだと思う。

というよりも、丁寧に、疑いのない『愛』を誰かに認識してもらうことがきっと、その人が『理由もなく』生き続けられる最たる方法なんだろうと思う。

疑問を覚えた数が、愛されているという安心を感じるハードルを上げている

以下に紹介するのは、2012年(平成24年)10月から行われた漫画『黒子のバスケ』の作者・藤巻忠俊や作品の関係先各所を標的とした一連の脅迫事件の容疑者の最終意見陳述である。

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない

をFBにシェアで流れてきて知った。見た人も多いんじゃないかと思う。

以下、最終意見陳述全文リンク

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述2 地獄だった小学校の6年間(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述3 事件を起こした動機(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述4 「黒子のバスケ」作者について(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述5 「無敵の人」(篠田博之).
「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述6 EXOにこだわる理由(篠田博之).
もちろん私の生涯は被告人のように暗いものではなかった、親からも一定の愛情は注がれてそだっているはずである。
そして彼の冒した犯罪を肯定するつもりは微塵もないことは伝えておきたい。

自暴自棄、という言葉が正しいのかはわからないけども、結局のところ、彼は何も望まなくなった上で、この世の中に、自分に絶望したんだと思う。
自分にも、世の中にも未練はない、まさに『無敵の人』なのだろう。

この意見陳述は、私がいつも鼻で笑っているような、『自分とは違う思考回路の人』と思っていた犯罪者が、自分とはなんら変わりのない思考の末
たどり着いた道がただ犯罪だっただけということを気づかせてくれた。

意見陳述の中で時折出てくる『楽しい時間』や『もったいない言葉を頂きました』という言葉を見ていると、どうしても彼が自殺願望があるようには思えなくなってくる。
それでもなお涙を流さずに『無敵の人』でられる理由は、今までの『安心』というものに対する疑いの数なのではないだろうか。

孤独だから、世界を壊しに行く。壊しに行けば、意味ができる。

今や全世界で過激派テロ組織として名をはせているISIS。
今までのテロ組織とは比べ物にならない資金力と残忍性で名を売っているこの国際的テロ組織に入ろうと試みる若者たちですら『黒子のバスケ』の容疑者となんら変わらない動機なのではと思えてくる。

北大生、イスラム教に入信=モスク通い渡航準備-「就職うまくいかず」・警視庁

北大生の『就職うまくいかず』という言葉を聞き、きっと笑った人がいると思う。

私も微笑して、きっと皆も思ったように私も思った。

『その行動力があれば就職できると思う。』

確かにそうだ、ただ、『就職がうまくいかず』という言葉は、本当に就職できない時だけに使われるのだろうか。
誰だって希望がある。きっと自己分析もして、自分にどのような職種が合っているのかも考えたのだろう。

でも自分が希望した職種には一切内定はもらえない。
または、自己分析とやらをした時点で、『自分にあった職種というよりも、自分は何にもあっていない』と気づいてしまうのではないだろうか?

就職活動は自分の存在意義を底辺までと叩き落とす機会になりかねない。
面接を受けているうちに、きっと思うはずだ。

『誰だっていいんだ…』

現に私は思った。
もちろん会社が、何のスキルもない私を欲するはずなんてなく。当然私じゃなくたって優秀なら会社は誰だっていいのだ。

私は交換可能な会社の部品の一部にしかなり得なく、世の中に立っているのが私である意味なんて微塵としてなかった。

それは社会に対する不満や不信感ではない。自分に対する絶望なのだ。
就職活動を始めるまでは、なんとなく抱いていた『自分という価値』を全否定される。

私に価値なんてないんだ。意味なんてないんだと。

イスラム国に参加する欧州出身兵士の多くは先進諸国の裕福な国出身であるという。

もちろん、その中でも貧乏な家庭出身の人もいるだろう、ただそれらの国々出身の人々が『食うに困って』志願したとは思えない。

裕福になればなるほど、その国に対する対する自分の役割は小さくなる。

多くのことがシステム化され、誰でもできる簡単なことしか任されなくなる。

私がいなくても人口は変わらない。
私がいなくてもGDPになんら影響はない。
私がいなくても毎朝の光景は変わらなくて、きっと流れ作業のように世の中は動いている。

私はその中の、『動かなくても大丈夫な歯車』の一つでしかない。
無意味な存在なんだと。

きっと思ってしまうのではないだろうか?

そんなときに過激派テロ組織を知る。

こんな世界どうでもいいもの、だって私なんてどうでもいいんだもの。

自分に絶望したうえ、何も望まなくなる。人が生きようが、死のうがどうだっていい。

でも、そこにはきっと『意味』ができる。だって少数派じゃないの。と。必要とされるはずだと。

この小さな社会に貴方が必要

私たちはきっとグローバルになりすぎた。
広い世界を見ることが美徳化されすぎて、きっと視野を広げすぎた。
でも一国の大統領よりも、一家の主が大切だ。
隣県の知事よりも、あのコンビニの店員さんが大切だ。

私たちは実はものすごく小さな世界で生きている。
皆、小さな社会の集合体の中で生きてるんだ。

今朝、外の庭をはき掃除していたら、多くの人が声をかけてくれた。
『Good Job!』と言って自転車で通り過ぎるおばさん。
犬の散歩に行く手前、話しかけてくれた近所のおじちゃん。
嬉しくなって隣まで掃除してあげたら満面の笑みで喜んでくれた。

コンビニに行ってタバコを買おうとしたら『君は大丈夫、いつも来てくれてるでしょ?』

『元気かい?』『元気だよ、君は?』
毎日のように繰り返される挨拶。

まるで互いに確認をしあっているようだ。『君は必要なんだよ』『君もだよ』と。

ここトロントに住んで、私が生きる理由を考え始めてしまった『いつか』に比べるといくらか生きていける気がしてきてる。
それはきっと、この街と私の周りの暖かい人々のおかげなんだと思う。

日本にいたときに、なぜか蓄積された愛というものへの『疑い』が、少しずつ減ってきているのが分かる。

まだまだ自分がそうやって人に、価値を与えることはできてないかもしれないけど。
そういう風になっていきたいと、そう思う一日であった。

皆も、周りにいる人々に、わかっていると勘違いせずに、必要としているということを表してあげてください。
もしかしたらその人も『理由』の悪魔にとらわれているかもしれない。

相互に、必要なんだ、一方通行じゃダメなんだ。
社会とは本来そういうものであるべきなんだと。

思えただけでもきっと私がここにいる意味はあるのだろう。

 


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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