ヨーロッパ側から来た人間はここでアジアを感じて、アジアから来た人間はヨーロッパを感じるという。
確かに、ただ私から言わせると、アルメニアの方が『ヨーロッパ感』があったように思える。
つまりはアジアとヨーロッパの違いは宗教の違いなのではないだろうか?
イスタンブールの町からモスクが消え去れば、それは私の想像するヨーロッパアイランドの風景だし、バザールの喧噪がアジアだと言われればそういう気もするが、まだヨーロッパを経験していない私には、どこがヨーロッパでどこがアジアなのか分からない。
ただ、ここが文化の交差点であるということは目に見えてわかる。
世界各国から訪れる観光客。豊富な食。
アラブの春から続くエジプトのお混乱のおかげで、観光客がごっそり流れ込んだらしい。
イスタンブール以外にもカッパドキア、パムッカレやトロイ。豊富な観光資源。
偏見のなさ。
偏見のなさなど当然である。
我々日本人が外国人と接しようと思えば、海外に出るよりほかないが、ここイスタンブールでは住んでるだけで外国人と接することが出来る。
ヘジャブをしてるものからミニスカートまで、黒から白まで。
そして艶やかなトラムとバスが街の豊かさを感じさせる。
宿にいた日本人が誕生日プレゼントだと言ってビールをご馳走してくれたことで、私は幸せな気持ちで就寝することが出来た。
テラスにマットを敷いただけの宿。
横で下着姿で眠るヨーロッパ美女の存在が、ある意味うれしくて、生き地獄でもあるが…。
翌朝、私は橋を越えて新市街へと向かう。
坂を上り続けるとあらわれるのが、つい最近までニュースに頻繁に表れたタクシム広場である。
今はデモは鎮静化されたようだが、多く残る警官がデモの名残を思わせる。
人々の流れる方向に歩くと、見えてきたのは演説する老人と、それに集る大衆だった。
人数は多くて30人、小規模のデモ集会だろうか?と思いよく見ると、その人数を超える機動隊が待機している。
トルコの、治安悪化に対する懸念がうかがえる。
確かにデモのニュースが続けば、観光客は激減するだろう。私の父も『トルコはやめなさい』と連絡してきたぐらいだ。
ただ、ニュースを騒がせる国に行ったことがある人ならわかるだろうが、騒がせているのはほんの一部である。
海外では、日本人が一人なくなっただけでも大々的なニュースになって、その国のイメージは最悪になってしまう。
戦争だって内戦だってそうだ、一部にすぎない。もちろん、その一部に巻き込まれるのが怖いのだが。
それなのに毎日のように犯罪が起きるアメリカという国に対して、不思議と安心してるのだから我々日本人は不思議なものだなぁと思う。
つまりは知らないことが一番の恐怖なのだ。
ここでは人々は平和に暮し、観光客は楽しそうにしている。
観光地を一歩裏に入ると、汚く、一気に物価が下がったりするんだが、それは意図的に残しているのだろうか?
少なくとも、公園に入るとさまざまな男女が公然と接吻を繰り返す。
ムスリムでありここまで自由な国など、他にあるのだろうか…。
続く…