2-51. さまざまな人種とそれに対する寛容さ-イスタンブール-

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突然の物価上昇は、当然のように貧乏と金持ちを生む。

これはアジアのどの地域でも見られる状況である。
つまりはヨーロッパのように経済が悪くなってもダメ、よくなってもダメ。
まったく発砲ふさがりである。

『何してるの?』
と聞かれたので私は
『アジアを眺めてるの』
と洒落た言葉で返した。

私が何も考えずに通り過ぎたアジア、それを見ながら子供たちと海にダイブして遊ぶ。
海外のすっごい無邪気な子供、多くがまったく人見知りしないで、地元の言葉で話しかけてくるのだけども
だいたい最終的に行きつくところが『何かくれ』だったりする。

そのネックレスくれ、その指輪くれ、あれくれ、これくれ、マネーくれ。
終いにはシガレットくれと言い出して、なぜか『シンナー』だけはこっちに勧めてきた。

この国は現在、平均年齢が若い。
街を歩いていても老人は少なく、多くの仕事を若者がこなしている。

それゆえに、子供がものを売っていても、たいした違和感もない。

その若さは、トルコの強みであり。
トルコは、今後の世界の平和を担っていくと考えてもいいかもしれない。

マザーテレサが愛の反対が憎しみでなく無関心と言ったように
つまりは私たちにとっては知らないこと、知ろうとしないことが罪なのだ。

『人種的偏見のない国』
と考えると、私は自国を思い浮かべる。

日本という国は、その外国人の少なさから、あまり偏見の持たない国だと思っている(朝鮮人への偏見はあるが。それだって私の周りではそんな差別を聞いたことはない。)。

しかし、それは無知だからだ、理解する必要がないからだ。

それに対してトルコは、ムスリムの国でありながら、市内に立派な教会があり。
地理的にもキリストとムスリムの国の中心にあり。
そもそもトルコ人がさまざまな民族が混在して今に至っているという話である。

それはつまり、理解した上での寛容さを持ち合わせている。

それは親日以前に対して、他の人々に寛容であるということなのだ。
日本人だけは好き。そんな国があるわけがない。

私はやはり、同じ民族だけで構成され、いくら治安がよかろうが、そこに対して平和だとは思わない。
トルコのイスタンブールを見ると、様々な様式の人々が笑顔で街を歩いている。

もちろん、物乞いも多く、子供がシンナーをやっていたりするが。
日本では金はあっても、心は寛容ではないんじゃないかと思ったりもする。
誰も言わなくても、人生なり見た目なり、民族なり宗教なり、実は受け入れる体制あまったくできていない。
就職活動時に皆が同じ髪型にするのがいい例であると思う。

『移民受け入れに賛成か?反対か?』

そんなことを聞かれても、私はまだうまく返せるだけの知識がない。
でも、今後国際的な先進国として日本が生きていくためには、自国にいながらも他国の人間のことを偏見なしに知る機会というのは大切なんじゃないかなぁという気もしている。

イスタンブール。デモも起きて、機動隊も待機しているこの町、大きすぎるこの町の光も闇も良く見えずにいるが。ある程度お金が稼げていて、仕事がある人間にとっては、こんなに住んでみて面白そうな国はないと思う。
残念ながら貧乏旅行の私に、高い物価と多くの誘惑は苦でしかないが…。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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