トロントの南部に、アメリカのニューヨーク州とトロントを有するオンタリオ州を隔てるように四国とほぼ同じサイズで堂々と存在するオンタリオ湖に、トロントとぎりぎりつながっているのかつながっていないのかというぐらいで浮いているトロントアイランドは、北米一高いCNタワーよりも、全然勝てないMpale Leafsよりも、ただの滝であるナイアガラよりも、私の中ではもっとも行っておくべきと思える、トロントとは何ぞやと知るには最適な観光名所であると思っている。
それは、島から見えるCNタワーを中心に山形に広がって見えるビル群の景色が一番有名なトロントの絵であるということもあるのだが。しょぼいテーマパークに、マリファナの匂い、ゲイと一般人が混在するヌーディストビーチ、対岸すら見えないのにアメリカを見ようと必死になってる人々と偽物のビーチ、そんな中で、短い夏の季節を必死に、そして平和に楽しんでいる人々を見ると、『これがトロントだなぁ』とは思わずにはいられないからである。
何よりも対岸にそびえるトロントのビル群を眺めて、建物一つ見当たらない島の中でゆっくりと過ごす時間は、割と幸せなものなのである。何もすることがない代わりに、ただ歩くことに集中し、木々から聞こえてくる生き物の声と、植物がもたらしてくれる美しい種のシャワーには、あの近代的な都市の中においてはなかなか気づけなくなってきた。
『俺、トロントアイランド行ったことないんだよね。綺麗だって聞くんだけど。』
1年と数か月のトロントでのチャレンジを終えて、7月のはじめに離れる友人が、ことあるごとにそんな言葉を差し込んでくるので、『行きますか?』と男二人で向かったのだった。
オレンジ色に染まる夕日の中で、露出した股間とおっぱいの中を縫うように、砂浜の上を、エリスンが帰国した後、唯一と言ってもいいほどであった友人と歩くのは、割と感慨深くはあったのである。
『夜景を見ないとね。』
30を超えたおじさんの割に、そんな乙女のようなことを言うものだから、日が落ちるのが遅い夏のトロントで夜の10時近くまで待って、トロントの夜景を正面から見ることができる、閉店時間のカフェのテラスに入って、座って夜景を二人だけで眺めている時である。目鼻立ちのしっかりした、初老と呼ぶには若々しい美しさを残した女性が寄ってきて。
『とっても美しいわ…そう思わない?』と訊ね、『ご一緒してもいいかしら?』と聞いてきた。
『もちろんだよ。』私は夜景から視線を話すことなく答えた。どこに座ろうがその人の自由である。
『美しいわ、本当に美しい。』
その感動を形容しようと必死になりながらも、女性はその単語を見つけ出すことが出来ずに、もっともシンプルな言葉を発し続けた。
『トロントにはどれぐらいいるの?』
私がそう尋ねると、彼女は、
『もう21年になるね』と答えた。
21年トロントで暮らして、何度もアイランドに足は伸ばしたものの、夜景を見たのは初めてなのだという。
『こんなに美しいと知っていたら、もっと早く来ていたのに。』
『でも今ならどのビルが何のビルかすぐ答えられるわ。』
あのビル群の中で暮らしているのだろうか?
『トロントで何をしているの?』
私がそう聞くと、彼女はそれまでと変わらない口調で答えた。
『ホームレスよ、ここ三年ほどはね。』
それから彼女は自身の半生を、夜景を見つめていた時と変わらない表情で、瞳に夜景を反射させて輝かせながら、語り始めた。
コーカサス地方にあるグルジア国(ジョージア国)は私もインドからロンドンへの旅の最中に通過した国の一つである。
彼女の美しい目鼻立ちは、コーカサス出身の美女特有のものであったのだ。
21年前、そんな小国から、自由だと聞きつけてカナダに来ることになる。
『自由だと聞いていたのに、カナダに来てからの7年間は両親にも実の娘にも会えなかった。』
『やっとのことで娘を呼び寄せて、トロント大学を卒業させたけど、旦那と別れて、三年前に政府からの支援も打ち切られて、家を失った。』
『今はあのあたりで寝ているのよ』と暗闇の中を指をさして教えてくれる。
『子供は知るべきじゃないの、政府が助けなければいけないことなの。そうでしょ?娘は関係ないのよ…。』
『自由だって聞いたから来たのに、こんなに冷たいんなら、オーストラリアにでも行くんだった…。』
一通りの半生を聴いてから、視線を夜景に戻すと、先ほどまできらきらと光っていた美しい夜景が、大きなビルの森、一塊の怪獣に見えてくる。
森一つ、木一本の影さえ見ることが出来ない。対岸にそびえたつのは四角い冷たい大きな建造物の集合体である。
『政府が、助けるべきなの。娘は関係ないの。』
自分に言い聞かせるようにそう繰り返しながら、あぁ、こんなに美しいなら、こんなに寒いなら、とため息のように漏らす。
ゆっくりとした時間を共に過ごし、空気が冷たくなって、帰りのフェリーが島についた。
『ありがとう、貴方の状況がよくなることを願っているよ。楽しんで。』
私がそういうと、彼女はやっと哀しみの混じらない素晴らしい笑顔を私に向けて、名前を交換した後に、私たちは帰りの船の汽笛を目指して走った。
夏になると、どこにいたのかと疑いたくなるほどに道端に現れるホームレスや物乞い。
平和であり、社会保障の手厚い福祉先進国と言われるカナダにおいても、そこには悲しい物語の数々が点在すること。
街の中で決められたサイクルで生きているとどうしても忘れてしまいそうになるそんな感情を、思い出させてくれた、男二人の島での夜であった。
続く…