3-4. 一人で生きていくんだ-トロント-

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数多くの国では人々が助け合って生きている。イランも、南米もそうだろ、日本だってそうだろ?ただ、カナダは違うんだ。どうか、他人を頼らないでほしい、ここでは君たちは一人で生きて行くんだ。俺だって悪いとは思ってる、でもそれがカナダだ。

小学校高学年から、東京のベッドタウンである川崎の住宅街で育った私からすれば、彼のそのイメージはもう日本においても田舎にしか残っていないのではと思うが、それでも、体験入学で入った語学学校の講師が言ったその言葉は、私の身を引き締めた。

一人で生きて行く。その大変さはカナダであっても、日本であってもさほど変わらないだろう。
語学がわからないため、もちろんこちらのほうが少し時間はかかるが、一人ということの辛さ大変さ、また喜びや自由は日本で生きていることとあまり変わらないように思う。

日本で会社に入り、毎日働き、時にふと思い浮かべるであろう、なぜ生きているのか、自分はなにがしたいのか。
そんな人々に是非エールを送りたい。
ジョブスの言葉を借りれば、その点はいつかどこかの点と線でつながるはずだ。
私の言葉を送るとすれば、我々は一人という共同体だ。世にのさばるXmasを待ち望んでいるカップルではけして味わえない、独り身の悲しみを共有できる私たちは、一人であって、一人ではないことを是非頭の隅にいれておいてほしい。

時に、恵まれてない人間のほうが孤独感は感じないのかもしれない。苦しみや悲しみは、楽しみや幸せよりも強固な信頼関係と共同体を作る。
日本で合えば話すらしない人々と、旅では数多く会話を交わすことができた。
私が職探しと部屋探しと、慣れないトロントのシステムに苦しむことで、この先の生活を左右するであろう友人たちを作れたのも、そのおかげだろう。我々は孤独を背負った仲間なのだ。

文頭の話に戻ると同時に、私の近況をお話ししたい。
私は、チリ人の友人に『ホクトは本当にラッキーボーイよ!』と言われるように、渡航して20日余りで二つの仕事と、シェアハウスメイトと家を手に入れた。
簡単に説明すれば、やすい家賃で高い給料を得られる環境を手に入れた。
ただ、私に訪れた最大の幸運は、ここに来て数日のうちに、毎日のように会う友人を得たことと、私の仕事がカナディアンとイタリアンがほとんどのイタリアンレストランと、日本焼鳥屋の『ウェイター』と言うことだ。
共に、私の英語に対する意識を上げてくれる。

さて、講師が述べたようなことを、私が働く二つの飲食店からも感じることができる。
もちろん、二つの仕事は居酒屋とレストランと業態も異なる上に、イタリアンレストランがカナダのスタンダードな考えな上で成り立っている仕事なのかはわからないが。

私が平日のランチタイムに皿洗いとして働くイタリアンレストランの仕事は、正直言って、楽だ。
皿洗いだけしていれば文句も言われない。やり方に口出しもされない、作業中になにをしてようがお構いない。シェフやコックは本域で歌を歌っている。
日本で、アメリカの映画でシェフやコックがラジオに合わせて歌っているシーンをよく見たが、『映画の中だけの話じゃないんだ…』という気持ちは、ここにきて何度も味わった。

自分が『皿洗い終わったので仕事はあるか?』と聞くと、時には仕事を与えてくれるが、だいたいは『ないわ』と言われゆっくりコーヒーを飲むことを許される。
シェフにはシェフの仕事が、コックにはコックの仕事が、ヘルパーにはヘルパーの仕事が明確にあり、互いにそれを共有しようとはあまり思っていない。
遅刻をしても、仕事が長引いても特になにも言われない。
私の仕事を私に任せるために私を雇っているといった感じだ。
そのために、遅刻しても、洗物はその分たまっている。

ここまで読むと少し冷たい職場に感じるかもしれないが、決してそんなことはない。
始めての人に会えば、必ず握手と共に自己紹介をしてくれ、オーナーの接し方も、私とシェフで、何も変わらない。
仕事をしていて階級を気にすることはほとんどない。
ただ、皿洗いで雇われた以上、食事を作らせてくれることはないのだろうな、という気持ちは強く生まれる。

対して、日本焼鳥屋。
ここは、オーナーからマネージャー、すべてのスタッフが日本人であり、いらっしゃいやありがとうも日本語で言う。お客さんも東アジア系が多い。
つまりは接客だけ英語の、日本と何も変わらない居酒屋である。
ここでトライアルを終えて、晴れて本採用になったのだが。少なくともホールに関しては、明確な仕事分担はあまりされていない。
出来るならば何をしてもいい。
いや、出来るならばしなければいけない、出来るように成長しなければいけない。
社員の方々に挨拶に言っても、『はーい、よろしく』で終わる。明確な階級区別はあっても、仕事に関しては区別が少ない。

確かに、同じ給料でも、任されることや、覚えなきゃいけないことが多い分、日本の居酒屋のほうが大変であるが、仕事に対して金だけの価値を求めてない私には、正直、日本的居酒屋のほうが、やりがいがはある。

ただ、イタリアンレストランが店の仕事を分担して営業しているのに対し、日本式居酒屋は店全体をスタッフで共有することを強要してる節がある。
終わりなき向上心を強制的に持たされる、上がるまで終わりなき仕事。
それは、愛がないと出来ないことだ。自分に与えられた仕事を超える仕事を積極的に行うには、店に対する愛が必要である。
問題点は、この愛が生まれる前に、愛することを強要している感じがする。
様子見が長く、排他的な日本人と親しくするのは、正直言って他の国の人々よりも時間がかかる。

現に、私はもうイタリアンレストランに愛が芽生えつつあるが、居酒屋を愛するにはもう少し時間がかかりそうだ。

多くの人がオブラートに包む形で多用するこの言葉と共に、この二種類の仕事をこう結論づけよう。

『まぁ良し悪しだよね。』

貴方に合ってそうなのはどちらだろうか?

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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