1-3. 優しい人この親指止まれ

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 先ほど、家の前まで私を送ってくれた方が言った
『20代はやりたいことをやった方がいい、探したほうがいい』
という言葉は、ここ最近で私を勇気づける一番の言葉であった。

 

 

 

2月の19、20で旅行しない?

3月の上旬にアルバイトを辞める友人からこんな誘いがあった時、私はとても悩んだ。

4月よりニート生活をする私にとって、『旅行』という金のかかる遊びは一般サラリーマンがロールスロイスを買うぐらい冒険的なことである。

そんな悩みも、同じバイト先の美女から『行こうよ』と一言言われて消飛ぶのだが、私はそのロールスロイスを買ってしまう罪悪感を消し去るために、何故だかわからない一言を発してしまった。

『俺、帰りに大阪行って住んでた場所見てくるね。そっからヒッチハイクして帰るから。』

『思い出を見てくる』と格好つけて、旅行という遊びの罪悪感を消し去ったのだ。
しかし、行きはそのバイトを辞める彼が車を出してくれるからいいとして、私は帰りに新幹線代を出す金がない。

そこで良く考えもせずに、で安易に、阿呆らしく思いついたのがヒッチハイクであったのだ。

現代とは怖いもので、口で言った言葉なら亡き者にできても、携帯電話では文字として残ってしまっている。
『漢に二言はない。』を信条にしてる私にとって、一度言ってしまったことを消し去ることはできなかった。

京都で美味しい食事と、 美しい建築物、少量の酒を堪能出来たことは、この旅行を計画してくれ、運転をしてくれた彼に感謝である。

別れ際に彼は言う、『一緒に帰ろうよ?』
美女は言う、『何故そんな思考が出てくるか分からない。』

私はこのとき、できる事なら一緒に帰りたかった。
彼らは私がどうしても『ヒッチハイクをしたい』と思っていると思っただろうが、確実に彼らと帰路を共にしたほうが、楽だし、何よりも楽しい。
揺れ動く心の中で、私が出した結論は『いや、一緒には帰れない』だった。

何年もずっと、口だけで動くことのない自分に嫌気がさしていた。
この先、こんな自分ではいけないと思っていた。
時には楽しくてもそれを断ち切らなければいけない時がある。
その先は辛くとも、到着地点はきっともっと楽しいはずなのだ。

京都駅で涙が滴り落ちそうになりながらも、彼らと別れた私は、漫画喫茶で一泊してから小学校3~5年を過ごした箕面へと向かった。

たどり着いた第二の故郷は、沢山の思い出があった。

当時全国チェーンの激安飯だと知らなかった私達がそこから溢れ出す臭いを嗅いで『大人になったら必ずみんなで行こうな!』と言っていた吉野家がまだあったこと。

住んでいた家がそのままだったこと。

蛙相撲をするための蛙をとった田んぼがまだあったこと。

友人の家もそのままにあった。

学校もそのままだった、ドアのない教室や中庭、
無駄に豪華な給食のメニュー。

スイミングスクール。

すべてがそのままの形で残っていた。

でも友人の家に、もう友人はいない
学校にクラスメイトはいない

そこにあるのは空っぽの思い出だけだった。
当時、小学生は携帯を持たぬ時代であったから
『必ず手紙書く!』と言って書いてもらった住所は引っ越してすぐにどっかに行ってしまった。

あの時の思い出をとっておけるのは私だけなのだ。
誰も語り合える人はいない、そう思うと涙が零れ落ちるほど寂しくなってしまった。

しかし悲しんでばかりもいられない、22日には思い出を語り合うことが出来る友人と久々に飲む約束をしている。

それまでに帰らなければならないのだ。

しかしヒッチハイクなんてしたことがない、やり方もわからない。

とりあえずスーパーで白い段ボールをもらって、 黒いペンを買う。

『何処で親指立てればいいんだろう?』

やはりこう高速の入り口がいいのか…

そんなことを考え歩いていると、千里中央駅にいたのに、目の前に太陽の塔が見えてくる。

しかしそこで恥ずかしながら『名古屋方面』と書いた段ボールと共に親指を立てても、誰も止まってくれる気配がない。

『きっと場所がいけないのだ』

そう考えた私はさらに歩き、大崎IC付近まで、結局20Kmほど歩いてしまった。

空模様が怪しくなり、雨がちらついてきたとき、一台のハイエースが止まってくれた。
親指を立て始めて2時間ほどしたときだった。

『仕事で東京から広島行って今日大阪で今から愛知に行く』という長距離トラックのお兄ちゃんの
『怪我さえしてなければ甲子園だった』から始まる波乱万丈の人生は 約8時間の移動時間も私を楽しく過ごさしてくれて、『もし寝床が見つからなかったら俺車で寝るから一緒に寝ていいよ』とまで言ってくれた。

『ありがとうございます』と言って、合コンを組んでもらう約束と、新宿での再会を約束して高崎城の前で再び親指を立て始める。

5分ほどでプリウスが止まった

最初は2時間もかかったのに、次は5分だった。

徳島からきて、足柄SAまでならだという印刷業を営むおっちゃんは、素晴らしい親戚を持ち、美食家でありながら、多くの起業アイデアを持つおっちゃんだった。

東京のおいしいお店、今の世界情勢、機械事情、『就職しないならこんなことしてみれば?』とさまざまなアイデアを提供してくれた。
しかし、漫画喫茶で3時間も寝てなかった上に、沢山歩いてた私は、おっちゃんの話が親戚自慢に突入したぐらいでウトウトしてきた。

足柄SAで下りたオッチャンは、飯も食べずにどっかにいってしまった。
待っていようと思っていたのだが、気づいたら私は寝てしまっていた。

朝の8時であった。
おっちゃんは当然のようにいない。
私は感謝の一言も言えずに寝てしまったのだ。

なんて申し訳ないことをしてしまったのか。

足柄SAでは戸惑ってしまった。
今までは流れゆく車の波に親指を立てて入ればよかった、
しかしここでは車は流れていない。

女子高生の『本当にこういうことやる人いるんだ』
という声も直接耳に聞こえてしまう。

『川崎IC』と書いた看板をただたんに持っていても、皆ちら見するか、世間話をしてくるだけである。

心がおれそうになりながらも、『頑張って』と言い、渡してくれた売り物の栗を食べながら、今度は川崎ナンバーの車すべてに声をかけるという愚行を開始する。

今までは『優しい人この指とまれ』と言っていただけだったのだが、ここからは『貴方はやさしいですか?』と押ししつけのように聞き始めたのだ。

結局それを1時間したぐらいで、黒塗りのワゴンに乗ったチェケラッチョ系の兄ちゃんが『海老名SAまでならいいよ』と言ってくれた。

少し恐怖を感じながらも、後部座席にお母さんが乗っているのを確認して、『いい人なんだろう』と思い『お願いします』と言って乗り込んだ。

『車買ったから母さんと弟つれて山梨旅行してた』 というチェケラッチョ兄さんは、私がニートになることを聞き、強烈に説教をしてきた。

『お前にはなにもないじゃないか、それでいて金も稼がない、何がしたいかもわからない、お前と友達になろうなんて誰も思わないね。』

おっしゃる通り過ぎて言い返す言葉がなかった。

泣きそうになりながらも、海老名SAでチェケラッチョは去って行った

『いつか俺が乗せたこと自慢できるぐらいになってよ』と言って。

運転手らしいが、何を運んでるのかは決して教えてくれなかったが
人は見た目によらずいい人なんだと思った。

海老名SAは川崎・横浜ナンバーがあんなに多いのに
人があんなにたくさんいるのに
まったく載せてくれる人がいなかった。

3時間ほど粘って、悲しんだ揚句ラーメンを食べた私が(気付けばハンバーガー2つぐらいしかこの二日間で食べてなかった…)看板を持って歩いていると、こちらを見てくる男性がいる。

『川崎ICまでいかないですか?』私が聞くと、彼は笑顔で『行きますよ、いいですよ。』と言ってくれた。
『ずっとこっちにいます』というお兄さんは、話を聞くと私の高校の大先輩であった。
生まれからずっとここに住み、高校を卒業してすぐ働き出したというお兄さんは、それに少し後悔しているのか

『20代はたくさんのことを経験した方がいい、固めるのは30代からでいい。』

と、私が涙が出るほど喜ぶアドバイスをしてくれた。

結局『家まで送ってあげるよ』と言われ、先ほど私は無事に家につくことが出来た。

世の中には、誰かが望めば親指に止まってくれる人はたくさんいるのだ。
そして私は、親指を何の躊躇いもなく出すことが出来るようになった。

それだけでも大きな成長だと思っている。
私のこの先の旅路においては、親指を出すなんてもんじゃない試練が待ち受けているだろう。

しかし、今回のヒッチハイクで、私はそのために必要なちょっとした勇気をもらった。

京都に連れて行ってくれた友人、一緒に楽しんだ仲間、学校を見せてくれた教員、帰らせてくれた人々。

すべてに感謝しなくてはならない。本当にありがとうございました。

 


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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