2-59. 悲劇の跡には花が咲くと信じようじゃないか-モスタル-

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深夜についたバスターミナルのソファで、私はリンゴをいじりながら寝ていたのだが、気づいたらそのリンゴはなくなっていた。

常に紐を通してベルトに括り付けていたのだが、その紐すらも切ることなく、そして私を起こすことなく持って行った人には、もはや尊敬の念を抱かずにはいられない。
私は完全に油断していた。簡単に旅行できるヨーロッパに、夜の怖さはあっても、独特の恐怖心を抱かない東欧に。

ただ、旅に出るということは、自己責任が付きまとう。
つまりは、強盗に会っても、もし殺人に会っても、それがどちらが悪いかと言われればもちろん強盗や殺人を犯す人間の方が悪いに決まっている。
しかし、その責任はやはり自分にあるのだ。それは日本にいても確かにそうだろう、しかし海外に行くとそのすべてが『注意力不足』で片づけられる。

自分の力で解決しなければいけないし、逆に言えば自分の力で解決できれば、誰からもなにも言われることがない。こんなにも心地のいいものは、実は日本にいるとなかなか味わえなかったものだ。

起きてから数分はそのことに悲しんだが、旅で得た『ま、いっか』精神で、とりあえず宿を探し始める。

人に道を尋ねて宿にたどり着き、荷物を置き、警察へと向かう。

まさか、ボスニアヘルツェゴビナで警察のお世話になるとは思ってもみなかった。

警察官は案の定英語を話せず、私の英語もだいぶ不安定のため困っていると、警察官が何やらパソコンをいじり始める。
警察官がgoogle翻訳を用いて英語に翻訳し、それを私が電子辞書で日本語に直すという風に意思を疎通していった。すごい時代である。

ものの10分で証明書を作ってもらって、保険会社に連絡を済ませて、わたしはようやく街を見ることが出来た。

人々はやさしく、道を聞けば10分もかけて教えてくれる。
私を見ると『チャイニーズ?』でも『こんにちわ』でもなく『ありがとう』と最初に話しかけてくる。
意味が分かっているかはわからないが、バスに描かれている日の丸と何か関係があるのだろうか?

人は陽気で笑顔が素敵であり、私はそれだけでこの町の滞在を延長したくなったが
街には昔の紛争跡が生生しく残っている。

蜂の巣のように穴の開いた民家
スナイパーがいたという廃墟のビル

いたるところで紛争の跡をみることが出来た。
私はそれらの傷跡を見て、何も感じないほど不感症ではないが、そのあとに旧市街に入り、私が何も悲しい気持ちになる必要はないのだと、感じられた。

街を通る川は、ドブロニク同様に美しい水で、人々が活気よく土産物を売っていた。
多く売られている弾丸アクセサリーや置物は、紛争の残りをうまく利用していたし、
何より、この町の人々にはその陰の歴史など、まったく感じさせない。

私が持つべきものは、この町に対するネガティブなイメージではなく、出発点がマイナスなのに、得ることが出来たこの観光地、観光客、笑顔と、その美しさに対するポジティブなイメージだけでいいのだ。

この町は、たとえ内戦跡が見られなかったとしても、旅行で来るだけの楽しさがある。

日本も、二次大戦の時に大きな被害と悲しみを背負った国ではある。
しかし、私たちは今、それらの悲しみを受け継ぐべきなのだろうか?

いや、そんなことは決してないと思う。悲しみは、私たちが受けたものでは決してないし、それらを想像することすら困難である。

では、私たちはどうしたらいいか、何を覚えていればいいか。
戦争が生む悲惨さと、その悲惨から復興した自国を愛すればいい。
それだけでいいのだ。

素敵なこの街を、もっと素敵にしていきたい。

モスタルの人々からはそのような元気がみなぎっているように見えた。

いつまでも悲しみを引きずる必要なんて決してないのだ。
私たちはそこから這い上がった先人たちの歴史を愛すればいい。

個人だって一緒だ、自分が今どん底にいるというなら見習えばいいじゃないか。

ドイツや日本を、このモスタルを。

必ず花は咲くだろう、復興と言う名の力を肥料にして。

川を少し堪能し、現地の食事を食べて、ベッドに横になると、気づいたら寝てしまっていた。

久々の宿泊、やはり疲れがたまっていたのだろう。

続く…


Hokuto Aizawa
世の中にあきれられた一人の男が、世界を半周した後、北国カナダのトロントにて庖丁に出会う。日本に帰国後、ふらふらしながらも目の前にある美しい事々を見逃さないように暮らす。

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